ぽっかりと開いた穴に飛び込んで、俺は暗い暗い地の底へと真っ逆さまに落ちていった。
 けれど、不思議と、落ちていくことに恐怖を感じたりはしなかったんだ。
 自分から飛び込んだのだから当たり前なのかもしれないが、おそらく夢の中の俺は、落ちていく先に何があるのかを知っていたのだと思う。

 地に足をつけると――そう、落ちた時の衝撃はなかった――そこは賑やかな町だった。やかましいと言ってもいいくらい賑やかだったが、決して不快な喧騒ではなく、寧ろ心地よいとさえ思えた。
 多くの店が軒を連ね、鈴や笛や太鼓の音が鳴り響き、行き交う人々が通りを埋め尽くす――どこもかしこも華やかな色に染まっていて……そうだな、ちょうどこの町のような感じだった。
 そして地の底にあるにもかかわらず、空は暗くはなく、鮮やかな朱色に染まっていた。
 その色は夕日よりも赤くて、まるで空そのものが燃えているようでもあった。

 俺は何かを探していた。何を探していたかは覚えていないが、とにかく、何かを必死に探していた。
“それ”は、夢の中の俺にとっては、何物にも代えがたい、大切なものだったのだろう。
“それ”を探しながら人々の合間を縫って歩いていくと、大きな店に挟まれるように、小さな店があった。
 落ちぶれた占い師がぼろい風呂敷を広げたような、ただそれだけの場所で、店と呼んでいいものかどうかさえ迷うほどの空間だった。例えば風神フェオンがくしゃみをしたら跡形もなく吹っ飛んじまいそうな、そんなところだった。
 そこは、何と言えばいいのか……石を売る店だった。
 石と言っても、その辺の道端に落ちているようなただの石じゃない。綺麗な……そう、この店にもあるような水晶とか、色のついた綺麗な石とかを売るところだった。
 ただそれだけのちっぽけな場所で、それ以上でもそれ以下でもなかった。俺からすれば、まるで閑古鳥の巣そのものだった。だが、俺は何かに呼ばれたようにその店の前で足を止めて、そこに並ぶものへと視線をやった。
 いくつもの硝子の小皿に、色とりどりの小石が転がっていた。そして、真ん中に大きな水晶の結晶がどんと置かれていたんだが……
 それに、その水晶の塊に、俺は目が釘付けになってしまったんだ。
 それは両手に乗るくらいの大きさの、白く透明な水晶の塊だった。角度を変えてみると、小さな虹がきらめいて見える、そんな塊だ。
 言ってしまえば、ただの石の塊だ。そうだろう? けれどその石を目にした瞬間、俺はそれをどうしようもなく欲しいと思ってしまった。
 魂が吸い寄せられたとでもいうのか、例えるならばそんな感じだ。今思えば、あの石の塊こそ、夢の中の俺が探し求めていたものだったのかもしれない。
 けれどもそれには、俺の持っている金では到底買えないような値段がつけられていた。家が何軒も建てられるような、俺などでは一生働いても払えないような金額だった。
 手に入らないとわかった途端、俺は何故今手元にこの石を買えるだけの金がないのだろうと悔やんだ。金がない以上、諦めるしかなかった。けれど諦めるなんて出来なくて、そっとその石に触れたんだ。
 石はとてもあたたかくて、それで、ますます欲しいという気持ちを捨てることが出来なくなった。欲しかったんだ、とても。
 そうしたら、すぐ目の前で店番をしていた老婆が、俺を見ながらしわがれた声でこう言ったのさ。

「……この石が欲しかったら、あの空を手に入れてご覧」

 老婆が指差した先には、大きな青い星が一つ輝く、鮮やかな朱色の空が広がっていた――


第十三話 初夢語り


 その男の話を、瑛藍は興味深い眼差しと共に聞いていた。
 男が先程から身振り手振りを交えて熱心に話していたのは、彼が年の初めに見たという、夢の話だった。

 男とは初対面であった。まだ名前すら聞いていない。
 癖のある黒髪に、青年と呼んでも差し支えのない若さを持つ端正な顔。日に焼けた褐色の肌に、この蓮砂国では珍しい深緑の色を宿す瞳。聞けば、西の沙羅国からはるばるこの国までやってきたのだという。
「……なるほど、それで朱色と言えば蓮砂国だと、そうお考えになられたのですね」
 もう何杯目になるかわからない沙羅国産の紅茶を、慣れた手つきで注いでやる。
「そうなんだ。だが……ここまで来たはいいが、この先どうすればいいのか、皆目見当がつかんのだ。それにしてもあんたの淹れる茶は本当に美味いな」
 男は頭を抱えんばかりの勢いで盛大に溜め息を吐き出してから、紅茶に手を伸ばして笑った。
「恐れ入ります。……旦那様は、夢から覚めてもなお、その石を欲しいと思われた。そして、その石を手に入れるために必要な、朱色の空を手に入れようとお思いになられたのですね」
 そんな風に思った青年が、今、他の誰でもなく瑛藍の目の前に座っている。
 この広い蓮砂国の中で、迷い人さえ辿り着くことが困難と言われても否定出来ない場所にある、この“薫香茶房”の扉を潜って。
 不思議な縁だと、瑛藍は胸中で一人ごちて小さく笑った。
「俺の昔からの悪い癖なんだ。こうと決めたら後先も考えずに突っ走ってしまう。だが、今回ばかりは不思議と、本当に手に入るような気がしたんだ。――だから、居ても立ってもいられなかった」
 そう、青年が言う通り――きっと彼は、本当に“空”を手に入れようと思ったのだろう。夢に出てきた水晶を手に入れるために、果てのない“空”を得ようと本気で思っているのだ。
 気でも狂ったかと、大勢に笑い飛ばされても何らおかしくはない。水晶ならまだしも“空”を手に入れるなど、どう考えても現実的ではない。
 だが、この青年は、手に入るのならば本当に手に入れてやろうというごく純粋な想いを胸に抱いて、沙羅国からやってきた。
 そして、こうして瑛藍の目の前に座っている。
「――あんたは、どう思う? ……いや、やっぱりいい。馬鹿なことを考えた。空など手に入るはずもない。ただの夢だと笑い飛ばしてくれ」
 少しでも冷静に考えることが出来たなら、無理な話だという結論に行き着くのは容易い。だが、もしこの青年が故郷を出る前にそう思ったのであれば、今、彼はここにはいなかったはずだ。
 そう、彼は最初から無理だとは思わなかった。欲しいと思ったものを、手に入れようという気持ちがあった。そして慣れ親しんだ国を出て、誰も彼を知らない異国へとやってきた。
 すべてのきっかけは、彼が先程瑛藍に語って聞かせた夢であり、この夢こそが、彼をここへと導いた。
 この巡り合わせは、ただの偶然と呼ぶには些か惜しい。
 だからこそ、この青年ならば本当に望むものを手に入れてしまうのではないかと、瑛藍には不思議とそう思えてならなかった。
「……さて、私といたしましては、非常に興味深いというのが本当のところでございます。……生憎と、夢で占うということに通じてはおりませんが」
 瑛藍は言葉を選びながら、常と変らぬ穏やかな声音で告げる。
「旦那様がその夢に対してよい印象を抱かれたのであれば、それは吉夢ではないでしょうか」
「吉夢……というと?」
 青年の瞳がわずかに輝いたのを、瑛藍は認めた。だからこそ迷いなく、続く言葉を紡ぐことが出来た。
「この先遠くない未来に、旦那様にとってよいことが起こるでしょうという、その前触れにございます」

 ――その時。
 二人の間に浮かんだささやかな沈黙の息吹を掻き消すように、店の扉が開かれた。
 軒先に申し訳程度に仕込んだ鐘の音と冬の冷たく乾いた風が、新たな来訪者の存在を告げる。
「邪魔するよ、店主はいるかね」
 薄暗い店内の空気を一瞬にして取り替えてしまう力を持つ、凛と澄んだ声が響いた。
 黒曜石とも称される切れ長の瞳に、緩く編み込まれた艶やかな黒髪。飾り気のない、薄い色の衣を纏っても、その上から漂うある種の気品と風格、そして、威厳。
 そこには、瑛藍やこの蓮砂の民にとってはお馴染みの、皇帝《鎖碧》の姿があった。
「いらっしゃいませ、桃蓮トウレン様」
「おや珍しい。先客がいたのかい」
 初めて目にする男の姿に、鎖碧はもの珍しげに目を瞬かせる。
「……あんたは?」
 蓮砂の民ならば決してすることが許されない口の利き方で、男は鎖碧に問いかけた。じろじろと観察するように彼女を見やる眼差しは、不躾ですらあったかもしれない。
 鎖碧は無論、気を悪くする素振りもなく、穏やかな笑みを湛えて男を見返した。
「ただの客さ。お前さんもそうだろう? ……どれ」
 その瞬間、鎖碧の眼差しがわずかばかりの鋭さを帯びたことを瑛藍は察した。
 ちらりと男を見るが、気づいた様子は窺えない。
 無理もないだろう。鎖碧という人物をよく知る瑛藍だからこそ察せた――彼女がふと思いついた“これからやろうとしていること”は、およそこんな狭く薄暗い場所で繰り広げるようなものではない。
「……あまり暴れないでくださいね」
 止める暇などあろうはずもない。店主でありながら、瑛藍はその権限すら持ち得ていないのだから。
 鎖碧が勢いをつけて男の元に踏み込んだのは、瑛藍がせめてもとばかりに呟いたその瞬間だった。
「……なっ!?」
 顔面を狙って繰り出された細い拳を、男は咄嗟に片手で受け止める。
 拳と掌がぶつかり合う小気味よい音が一つ響いて、再び店内に静寂が訪れた。
 店主はと言えば、帳場の上に広げてある茶器を守ろうと腕を伸ばしたのが精一杯だ。
 ――すべては、一瞬だった。
「い、……いきなり何をするんだ、あんた!」
 先にそう叫んだのは男のほうだった。鎖碧の手を受け止めたままの体勢で、驚きと困惑の入り混じった声が鎖碧に向かって投げつけられる。
「なるほど、筋はよさそうだ」
 男の硬い掌から己の拳を滑らせて抜き取り、鎖碧は満足そうな笑みを浮かべて頷いた。
「あとは言葉遣いと礼儀作法だね。お前さん、一体どこから来たんだい? 沙羅のほうかね」
「何を一人でぶつぶつと……あんた、俺の質問に答える気はないのか!?」
「旦那様、この方は……」
 男の声に微かに怒りが混ざり始めたのを感じて瑛藍が声を上げたが、鎖碧はそれを軽く手で制し、楽しげに目を細めて男を見やる。
「お前さん、名は?」
 何色にも染まらない黒曜の瞳が、青年の姿を映した。
 何気なく交わっただけの視線に男は息を飲む。しかし、鎖碧の瞳を真っ直ぐに見返したのは、決して怖じることのない深緑の眼差しだった。
「……朱里シュリ。あんたの言う通り、沙羅から来た」
 渋々といった風情で名乗る男に対し、鎖碧はやはり満足げな笑みを湛えたままもう一つ頷く。
「そう、朱里か。いい名だね。私は桃蓮。この国では《鎖碧》と呼ばれるほうが馴染みが深い」
「……《鎖碧》……?」
 あまりにもあっさりと紡がれた名を反芻し、青年は呆気に取られたように目を瞬かせる。
 だが、この国の王の名は隣国の青年にも覚えのあるものだったのだろう。次の瞬間、その目が一気に見開かれた。
「……っ、じゃあ、あんた、……いえ、あなたは……!」
「ああ、別に頭を下げる必要はまったくないよ。ここでは私は、皇帝ではなくただの客。つまりは対等だ。瑛藍、この男は私が引き取ろう。ついでにいつものを頼む」
 腰に下げた袋から透明な小瓶と白い陶器の器を取り出して帳場の上に並べながら、鎖碧は至極楽しげに口の端を釣り上げていた。
「……まったく、あなたという方は」
 瑛藍の力ない笑みにも、鎖碧はどこ吹く風といった体だ。
「朱里、大方この国で道に迷っていたのだろう。ここは……私が言うのも何だが、慣れた者でも容易く迷える迷路のような界隈だからね。それにしてもこの店に辿り着くとは、お前さんはとても運がいい」
「道に迷っていたというか……その」
 極まりが悪そうにぽつぽつと漏らす朱里に対し、鎖碧はわずかに目を丸くした。
「おや、行く宛てもなかったのかい? それならば尚更都合がいい。早速行こうじゃないか」
「行こうって、どこへだ……いや、どちらへですか」
「お前さん、私の元で働くためにこの国に来たのだろう?」
「……は?」
 皇帝とはいえ他人の口によって唐突に定められた目的に、今度は朱里が目を丸くする。
 しかし、彼の驚きや動揺などまるでお構いなしに――寧ろその反応すら楽しんでいるかのように、鎖碧の言葉は続いた。
「こう言えばわかるかい? つまりは私の護衛にならないかと、そういう話さ。当然寝食の保障はするし、働きに見合うだけの対価も用意する。もちろん、お前さん次第ではあるが――悪い話ではないはずだ。孔絽コウロもやっとじゃじゃ馬の相手から解放されると、それはそれは喜ぶだろう。私にとっても悪い話ではないんだが、どうかね」
 幼い頃から彼女と追いかけっこを繰り返している武将の名を引き合いに出し、当の“じゃじゃ馬”である鎖碧は悪びれもせずに笑っている。
 朱里は半ば呆然と立ち尽くしたまま、淀みなく紡がれる鎖碧の言葉を聞いていた。
 初めて出会った相手がいきなり殴りかかってきたと思ったら、この国の頂点に立つ人物だった。しかも、初対面の男に対し、己の側で働けと言い出した。
 からかっているのかと疑う余地さえないまま、ただ話だけがどんどん先へと進んでいる。
 無論、疑う余地などどこにもない。一国の主たる彼女が、異国の旅人ごときに嘘をつく理由も必要もない。
 それでも朱里が素直に、すぐに“はい”と言えなかったのは、鎖碧という人物とその行動があまりにも彼の想像と理解を超えていたからだった。
 冷静になって考えてみれば、朱里にとっては悪い話ではないどころか願ってもないことと言っても過言ではない。鎖碧が用意する対価というのも、もちろん、彼女の言う通り己の働き次第ではあるし、さすがに“空”は手に入らないだろうが、それでも、積み重ねてゆけば家の一軒や二軒、容易く建てられる金額になるはずだ。
 だが、こんなにもあっさりと事が運んでしまうとは、例えこの青年であろうとなかろうと、そう容易く信じ、受け入れられるものではないだろう。
「……なあ、店主さん」
 ぎこちなく向けられた朱里の眼差しに明らかな困惑の色が宿っているのを見て、瑛藍はつい笑ってしまいそうになるのを堪えるだけで精一杯だった。
「俺はこの国に来たのは初めてだが……見ず知らずの、初対面の、しかも他国の者をいきなり王宮に召し抱えるような国なのか、ここは」
「……僭越ながら私共は、この方がお決めになられたことにただ従うだけでございます」
「そうか……わかった」
 朱里は意を決したように頷き、鎖碧へと向き直った。そしてゆっくりと彼女の目の前で膝をつき、両の拳を合わせながら深く首を垂れる。
 それは、沙羅国の者がする最も丁寧な敬礼の仕種であった。
「――鎖、いや、桃蓮様。俺には、あなたと一緒に行かない理由がありません。あなたの期待に応えられるかはわからないが……それでもよければ、俺の命はもうあなたのものだ。……共に参りましょう」
 鎖碧は悠然と笑みを湛えたまま、朱里の言葉に深く頷いた。
「頭を下げる必要はないと言っただろうに。いい子だね、朱里。――お前さんの命、私が預かろう」


 ――おおよそ、このようにして鎖碧に半ば無理矢理連れていかれた朱里は、鎖碧の見込んだ通り、驚くほどの早さでその腕を上達させてゆき――この年の春に行われる神前試合の決勝戦にて見事に孔絽を打ち負かし、沙羅国の出身でありながら齢二十五にして蓮砂国の武将達の頂点に立つこととなる。
 その後も鎖碧の側で彼女を守り続けながら、財だけでなく実に多くのものを手にすることになるのだが、それはまた、別の話だ。

 これは、鎖碧の片腕にして《翡翠の矛》と呼ばれる男の、始まりの物語。
 年の初めに見た不思議な夢を切っ掛けとして己が辿ることになるこの遠くない未来を、まだ彼は知る由もない。


20110213




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