ただ、それだけの話だ。
第十四話 泡沫散想
歓びと熱気に噎せ返る西の町、祭邑。
皇帝《鎖碧》の座す蓮砂宮の程近く、華やかな色彩で塗り込まれた界隈の一角に、『紅華楼』と呼ばれる店がある。
昼は軽食屋、夜は酒場という、二つの顔を持つ飲食店だ。
そこに、いつの頃からか一人の歌姫が現れるようになった。
歌姫の名は、
長く真っ直ぐに切り揃えられた射干玉の髪。空を映したかのような蒼色の瞳。齢は十五を過ぎたかどうか、それさえも判別がつかぬほどの子供だが、見目はとても愛らしく、着飾ればより一層の美しさを備えて、そこにいた。
どこの生まれかもわからない。いつから店にいたのかも知られていない。裏通りで捨てられていたのを店主が拾ってきたとか、ふらりと店に現れて店主に歌いたいと申し出たとか、はたまた店主の隠し子であるとも言われているが、どれも定かではない。
那由花は誰に問われても己の出自を語ることはなく、ただひたすらに、たおやかに微笑んで――そして、歌った。
彼女の歌は、魂そのものだった。
透き通る声で紡がれるそれは多くの人々の心に響き渡り、自然と涙を誘った。
親を子を、愛しい人を想う歌。懐かしい故郷を、空の、海の、世界の美しさを――何者にも縛られず、見えない翼を広げ、声高らかに歌い上げる彼女の姿は、まさに“歌姫”と呼ぶに相応しいものだった。
とりどりの花と蛍灯で飾られた彼女の舞台は、鳥籠と呼ばれた。
鳥籠の中の、小さな歌姫。小さな翼をいっぱいに広げながら籠の中で歌う、儚い姫鳥。
その歌声に魅入られた者は、一人や二人ではない。
かの皇帝《鎖碧》もまた、彼女の紡ぐ歌に心を奪われた一人だった。
「那由花、お前を私の元へ攫ってもいいかい?」
鎖碧が那由花と交わそうとした約束は、彼女を自らの寵姫にするという契約に他ならず、また、皇帝《鎖碧》の寵愛を受けるということは、その後の一生の生活を保障されると言っても過言ではない。
那由花は、まだその意味を深く考えられるような年齢ではなかったが、紅華楼を出て鎖碧の住むところに行き、共に暮らすのだということは理解したようだった。
そして、いつでもどこでも好きに歌っていいんだよと鎖碧が言うと、「行く!」と無邪気に笑ったのだった。
こうして、那由花は正式に鎖碧の寵姫として宮入りすることが決まった。
無論、婚姻を結ぶだとか、夜伽の相手をさせるだとか、そういった類いのものではない。
宮仕えの歌い手として鎖碧に仕えることもまた、同時に決まったのだ。
楼の主人はこの吉報に大層喜んだ。鎖碧の元へ、自分の娘を嫁に出すようなものだ。言うまでもなく、相応の物が店へと返されることになる。
手塩にかけて育てた娘が、宮に“嫁入り”するのであれば、これほど喜ばしいことはない。
準備は店を挙げて進められ、あとは宮入りの儀が行われる当日を待つばかりとなった。
だが、その矢先に事件は起きた。
宮入りの儀を前に、彼女の身辺を警護する兵がつくようになったのだが、事件は、ほんのわずかな隙を突く形で起こってしまった。
店主の遣いだと名乗る男達が、巧みな演技で彼女を呼び出し、そして攫ったのである。
那由花が連れて行かれた先は、祭邑の路地裏にある廃屋だった。
そしてそこで、彼女は全てを奪われた。
暴漢達の伸ばした手から逃れる術など、か弱い少女が持ち得ているはずもなく、那由花は男達に身体を汚され、心を壊され、ついに歌えなくなった。
声が、出なくなってしまったのだ。
啼かなくなった小さな姫鳥に男達はすぐに興味を失くし、動けない小さな身体をその場に打ち棄てて去って行った。
啼けなくなった姫鳥を必死に探し回っていた店主や蓮砂宮の兵達がその場所を、彼女を探し当てた時には、既にもう、何もかもが手遅れだった。
那由花は助け出されたものの、宮入りの日は延期されることが決まり、その報告と共に見舞いに訪れた鎖碧は、いつまでも待つと優しく那由花に告げて、そして彼女を抱きしめた。
鎖碧の深い恩情と寵愛に、那由花はひたすら声の出ない喉を鳴らそうとしながら泣き続けたが、声は出なかった。
彼女はもう、歌えなかった。
声が出ない歌姫など、一体何の必要があるのだろう。
きっと声が出なくとも、鎖碧は自分を愛してくれるだろう。
確信はあった。鎖碧はそういう人物だ。だが、那由花にしてみれば、それではいけなかったのだ。
声が出なければ、鎖碧の前で歌うことが出来なければ、そこに彼女の存在する意味はなかった。
身体の傷を癒すことは出来ても、心の傷を癒すことは容易ではなかった。
声という名の翼を失い、生きる意味を失ってしまった姫鳥は、ある日、部屋の窓から地上へと身を投げた。
那由花はもう、飛ぶことが出来なかった。
そんな哀れな歌姫に、一人の青年が恋をしていた。
青年の名は、
――そして、その日の薫香茶房に、この澪深の姿があった。
瑛藍は表情を動かすことなく、青年の声を聴いていた。
二人の他に人の姿のない店内はいつにも増して薄暗いが、帳場の上に置かれた燭台に灯された蝋燭の火が、その存在を主張するように煌々と燃えていた。
「会いたかったんだ。すぐに追いかければ、会えると思った。でも、どこにもいないんだ」
澪深は切羽詰った様子で、瑛藍に縋るような眼差しと声を向ける。
どこにでもいるような、素朴な青年だった。きっと初めての恋をしたのだろうと瑛藍でさえも察せられるような、純粋な眼差しと心を持つ青年であった。
初めて那由花の姿を見た日、澪深はまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
少女の美しさもさることながら、華奢な彼女の全身から紡がれる歌に、心の奥底から揺さぶられてしまったのだ。
ただ一度の邂逅ですっかり彼女の虜になってしまった青年は、以来ほぼ毎日欠かすことなく、仕事の帰りに店を訪れては彼女の歌声に耳を傾けていた。
澪深の熱の入れようは生半可なものではなかったが、那由花にとっては自分の歌を聞きに来てくれている、ただの客の一人でしかなかっただろう。
ただの客と、歌姫。それ以上でも、それ以下でもない。
それでも構わなかった。彼女の姿を見ているだけで、彼女の歌を聞いているだけで、青年の心は言いようのない幸福に満たされた。
けれど、いつしかそれだけでは済まなくなっていた。
姿を見るだけでは、声を聞くだけでは、物足りなくなってしまって――それ以上のものを得られればと、心のどこかで一方的な期待を寄せていたことも、確かだった。
那由花が宮に入るという話を聞いた時、澪深は手放しで喜ぶことが出来なかった。
彼女が手の届かないところに行ってしまうという事実に、青年の心は埋もれてしまいそうだった。
それが、澪深にとってのそもそものきっかけであったかもしれない。
胸の内で芽吹いた那由花への想いの種は、日に日に大きくなり、やがて小さな花を咲かせ――そうして、澪深はこの気持ちを、那由花に伝えようと考えるようになった。
それほどまでに、彼女を想う気持ちは彼の中で大きくなりすぎてしまって、ましてや別の場所に置いて捨ててくるなどとても出来なかったのだ。
――ならば、伝えよう。
一目でもまみえることが叶ったならば、近づくことが出来たなら、この想いを伝えよう。
そう心に決めた澪深は、一握りの勇気を手に紅華楼へと向かい――そして、見てしまった。
心ない暴漢達の手によって、那由花が連れ去られる瞬間を。
奇しくもその日は、那由花が攫われ、全てを奪われたその日に他ならなかった。
澪深は居ても立ってもいられずに男達の後をつけ、那由花が彼らと共に廃屋に入っていくのを物陰から見ていた。
彼らが那由花にすることなど一つしか思い浮かばず、それを想像すればするほど、青年の心は焦燥に駆られた。
ここで見回りの兵に伝えれば、那由花は大事には至らないかもしれない。
あるいは、声を張り上げて人を呼べば――
だが、青年にはそれが出来なかった。
まだ表沙汰になっていないことを話したところで信じてもらえるとも思えなかったし、誰かに伝えることで、かえって自分が怪しまれてしまうのが怖かったのだ。
一刻も早く助け出さなければ、那由花は想像しているよりもずっとひどい目に遭ってしまうだろう。下手をすれば命も危ういかもしれない。
だが、澪深には何も出来なかった。
何も出来ず、彼は逃げるようにその場を去り、その日の夜は、ついに店に顔を出すことはなかった。
那由花の宮入りの日が延ばされたという一報は俄かに市井を賑わせたが、その理由として掲げられたのは、那由花の体調が思わしくないというものだけだった。
この報せを小耳に挟んで、澪深は那由花が助け出されたことを知った。
その日から、澪深は仕事の後だけでなく前にも紅華楼へと立ち寄るようになり、店には入らず、那由花の部屋を見上げるようになった。
助けを呼べなかったこと、助けに入れなかったこと。自ら選んだ道であるはずなのに、それに対する自責の念が澪深の心を苛み続けた。
己を責めたところで、那由花が負った傷が癒えるわけでもない。
どんなに悔やんでも、過ぎた時間は戻らない。
わかっていても、澪深は後悔せずにいられなかった。
だからせめて、彼女が窓を開けて、外の風に触れ、そして声を取り戻してくれるようにと日々願い続けた。
――あるいは、そこには彼女の姿を一目見たいという気持ちも、少なからず紛れていたのかもしれない。
そうして、ついに、彼の願いが叶う日が訪れた。
それは、よく晴れたある朝のことだった。
いつものように那由花の部屋を見上げていた澪深は、その窓がゆっくりと開かれるのを確かに見た。
もちろん、その窓を開けたのは那由花に他ならなかった。
澪深が固唾を飲んで見守る中、夜の気配の名残と太陽の匂いの混ざる、すがすがしい風を全身に浴びながら、那由花は空へと向けて“微笑んだ”。
それは、澪深が今までに見た中で、もっとも美しい微笑みだった。
その美しさに、青年が思わず見惚れてしまった、次の瞬間。
――那由花は、微笑みを浮かべたまま両手を広げて、“舞った”のである。
紅華楼の二階の端にある、己の部屋の窓から、那由花は身を投げたのだ。
那由花が取った行動の意図を理解するや否や、澪深は瞬く間に我に返り、彼女の名を呼ぼうと口を開いた。
だが、その口から歌姫の名を呼ぶ声が紡がれることは、ついになかった。
「あの朝、部屋の窓から飛び降りた彼女は、あそこで死んだと思った。だからすぐに後を追えば、川を下りきる前に追いつけるんじゃないかと思って」
瑛藍は時折小さな相槌を挟むだけに止め、じっと青年の言葉を聞いていた。
蝋燭の火が大きく揺らぎ、それに合わせて瑛藍の影も揺れる。
だが、澪深には“影”がない。
大河の向こうには死者の国があり、蓮砂の民の魂は、やがてはそこへ向かう。
蓮砂国では人が死ぬことを“川を下る”とも言う。それは魂が蓮砂国の側を流れる紀千河を下り、死者の国に行くと考えられているからだ。
だから人々は毎年大河に蛍火を流し、星を送り、眠りについた魂の安寧を祈るのだ。
純粋な想いだった。
だが、純粋な想いだからこそ、それは時に、容易く人を殺してしまう。
ずっと唇を結んだまま青年の言葉に耳を傾けていた瑛藍であったが、やがて、意を決したように彼の目を見る。
そして、はっきりとただ一言、こう告げた。
「――那由花様は、生きています」
「……何だって……?」
初めて、澪深の顔に驚愕の色が浮かんだように思えた。
「確かに彼女は飛び降りましたが、地面が草に覆われていたことが幸いし、何か所か、骨を折る程度で済みました。……川を下りかけたことに違いはありませんけれど、命に別状はなかったんです」
瑛藍は感情の一切を交えず、ただ事実のみを淡々と告げた。
決して、何も出来なかった、あるいはしなかった彼を責めているわけではない。それはする必要のないことであったし、すべきだったとしてもそれは瑛藍の仕事ではない。
瑛藍はただ、澪深の傍らで起こったことの顛末を、語っているだけだ。
けれどもそれは、彼にとっては心臓を刃で抉られるよりも残酷なものでしかなかった。
「何だ……死んだのは僕だけか」
歌姫は心を壊されながらも生き、青年は壊れかけた心を抱えたまま川を下らなければならない。
歌姫と共に死ねたなら青年も本望であっただろう。だが、それは叶わず、死んだのは青年だけだという。
「道理で、探しても見つからないわけだ……」
澪深は目元を手で覆い、肩を震わせながら、嗚咽を堪えているようだった。
だが、それに瑛藍がしてやれることは、何もない。
「……那由花様を傷つけた者達は、すでに宮の兵士が捕えています。陛下は己の心の赴くままに民を裁くような方ではありませんが、今回ばかりはどうなるか、私にも見当がつきません。いずれにせよ、彼らが五体満足で蓮砂宮を出ることは、二度とないでしょう。……那由花様も……時間はかかるかもしれませんが、いずれまた声が出るようになると、そう思います」
確かなことではない。それでも、未来へと繋がる希望はあるのだと。
それを死に行く青年へ向けたところで、何も意味はないとわかっていても。
そうか、と一言呟いて、澪深は立ち上がる。
薄っすらと透けてゆくその姿に瑛藍はぐっと唇を噛みしめるが、すぐに絞り出すように息を紡いだ。
「――だから、どうか、振り向かずに行ってください。私には、あなたをここで見送ることしか出来ませんが、そう遠くないうちに、またお目にかかれる機会もありましょう」
澪深は疲れ切ったような、困ったような笑みを浮かべて小さく口を動かし、そのまま歩いて店を後にした。
ありがとう――彼がそう言ったのを口の動きから読み取れたが、もう、声は聞こえなかった。
「また、いつか。その時まで」
閉ざされた扉の向こうの気配が、不意に消えたのを瑛藍は感じる。
同時に、帳場の上で燃えていた蝋燭の火が、最後に一際大きく揺れて掻き消えた。
ある日、一人の歌姫が窓から身を投げた。そのすぐ後に、一人の青年が大河に身を投げた。
歌姫は死なず、青年は死んだ。
――ただ、それだけの話だ。