日の出と共に多くの店が開店の準備を始める中をみずみずしい果物を一杯に積んだ台車が征き、その合間を、朝一番で穫れた川魚をぶら下げた魚売りが潜るように抜けていく。さらにその後ろをついて歩くのは、おこぼれに与ろうとする野良猫達だ。
西国の商人が風呂敷を広げている傍らで骨董屋の店主は“がらくた”にしか見えない宝物を磨くのに精を出し、その隣の古書店では、老齢の店主が軒下に本を並べ干している。
そうこうしているうちに蓮砂宮から朝、もとい皇帝《鎖碧》の起床を告げる鐘の音が高らかに響き、蓮砂国の一日が始まるのだ。
祭邑の一角に店を構える薫香茶房の一日も概ねこの鐘の音と共に始まるが、今日ばかりは少し違った。
男主人である瑛藍が隣国の沙羅から取り寄せた品が、朝一番に届けられたのである。
第十五話 幸願う紡ぎ歌
東の果ての蓮砂国、その片隅に位置する小さな店――薫香茶房。
主に男主人の道楽の塊と言っても何ら差し支えのない場所ではあるが、一応は店舗という形を取っており、商売らしい商売をしていないこともないわけではない。
その大半が、近頃また巣を新しくした閑古鳥の世話と言われてしまえば、それも否定は出来ないのだが。
一方で、男主人の仕入れの腕を頼る数少ない客が存在しているのも、確かな話である。
数日降り続いた雨が止み、久方ぶりに太陽が顔を覗かせたその日。
女主人である珱里は草色の小さな風呂敷包みを携えて、中天から差す光の注ぐ通りを歩いていた。
風呂敷の中身は言うまでもなく、注文の品である。
仕入れを頼む数少ない客達は、閑古鳥の巣を払う序でにと直接取りに来る場合が殆どなのだが、“彼女”の場合に限っては、こうして珱里から出向くことのほうが多かった。
祭邑一の大通りである春華通りとは別の通りに面している、薫香茶房が三軒ほど収まりそうな――けれど決して広いとは言えない店。
『藤倉屋』と書かれた紺色の暖簾がぶら下がるそこは、先々代の帝《鎖珀》の頃より続く老舗の服屋であった。
表ではなく裏口へと回り、閉ざされた戸を軽く叩いてから、珱里はすっと息を吸い込んだ。
「ごめんください、薫香茶房の珱里です」
「はあい! 開いてますから、どうぞ!」
常よりも若干大きめの声でそう呼びかけると、すぐに戸の向こうから、珱里のそれよりも元気な声が返ってきた。
「お邪魔します、結佳さん」
裏の入り口からそう遠くない座敷に、膨大な量の布に埋もれる一人の少女の姿。布を踏まないよう気をつけながら、珱里は少女の元へと歩み寄り、その傍らに膝をつく。
「こんにちは、結佳さん。ご注文の御品、お届けに上がりました」
「はい、こんにちは。ありがとう、珱里さん。そこに置いておいてくださいな」
少女は柔らかな笑みを浮かべてから、慌てたように少し乱れた髪を整えようとして、摘んでいた細い針を針山に戻した。
「ごめんなさいね、こんな格好で。珱里さんがいらっしゃるって聞いていたのに、私ったら準備もしないで」
「お構いなく、ですよ。今日は何を作っていらっしゃるんですか?」
朝も早い内から作業に没頭していたのは、散らばる布切れや裁縫道具の山から容易に見て取れる。
「お宮参りの衣装です。向こうの通りの紅蘭さんの。もう少しで出来上がるので、ちょっと今日、頑張って仕上げちゃおうと思って」
言いながら結佳が広げて見せたのは、珱里の目にはすでに完成しているように映る、赤子用の産着だった。
「これと、あと、お祝い用のお着物を」
結佳は続けて、傍らに広げてある、金糸で刺繍が施された青碧色の着物を示す。
これも珱里の目にはほぼ完成しているように見えたが、結佳に言わせればまだまだということなのだろう。
「いつもながらに、とても素敵です。ふふ、あんまり頑張りすぎて、身体を壊さないでくださいね」
「わかってますって。これでもちゃんと、ご飯も食べてますし寝ているつもりですから」
「ところで……青い色ということは、紅蘭さんのお子さんは男の子なんですか?」
珱里の何気ない問いに結佳は小さく笑って、それがですね、と続ける。
「占いでは女の子だったそうなんですけれど、鎖碧陛下に肖って、この色にしてほしいってお願いされたんですよ」
そういうことかと、珱里はすぐに納得して頷いた。蓮砂国では、生まれてくる子供の性別を事前に占う夫婦が少なくはないのだ。
「まあ、生まれるまでどっちかはわからないですけどね。でも、これくらいなら女の子でも十分着られると思いますし。何より……紅蘭さんもお子さんも、大事がなければそれが一番です」
「ええ、本当にそうですね」
この着物を着るべき子が、無事に生まれること。
結佳が何よりも願うのは、それだった。
結佳の両親は三年前、隣国の沙羅へ布地を仕入れに行った帰りに野盗に襲われ命を落とした。
以来、結佳は若干十五歳という年齢でありながら、祖父母や従業員の手を借りつつも藤倉屋の五代目として店を切り盛りしている。
彼女が初めて針と糸を通したのは、真っ白な手拭いだった。
到底売り物にならない歪な花の刺繍が施されたそれを、未来の藤倉屋を担う少女の作ったものだからと金を出して買っていった商人が、程なくして沙羅国との取引で莫大な富を得るに至った。
また、たまたま店番をしていた結佳に新しい着物の隅にお守り代わりにと鳥の刺繍を施してもらった娘が、ひょんなことから羽堂に住む貴族の青年に見初められ、嫁ぐことになった。
他にも、そのような話がいくつも浮かんでは、人々の間に漣のように広がっていった。
――彼女が作った品を身に着けた者は、幸せになれる。
やがて蓮砂の国中だけでなく、隣国の沙羅からも多くの注文が寄せられるようになった。
今では注文から完成まで少なくとも半年は待たなければならないほどだが、それでも彼女が手掛ける着物や小物を求める者が後を絶たない。
「どんな不思議な術を用いているのかって聞かれることもありますけど、あたしは、まじないなんてからっきし。ただ、……これを着る人がうんとうんと幸せになりますようにっていう、願いを込めているだけなんですよ」
結佳は多くの財を手にしながらも、店を大きくすることもなく――
生まれた時から住んでいる小さな店で、数人の弟子と共に今日も針と糸で想いを紡ぐ。
一針一針に込められる想い。それは、祈りだった。
「作るのはあたしでも、求めている人の所に渡ってしまえば、それはもうその人の物で、あたしの心の及ぶ所じゃあないんです。……だからこそ、ね。――あたしに出来るのは、こうして作ることだけですから」
ぽつぽつと結佳が落とす言葉を聞きながら、珱里は持参した風呂敷の包みを解く。
包まれていたのは、長方形の木箱。その蓋を開けると、仄かな花の香がふわりと広がった。
「うん、……いい香りですね」
布地に纏わせるためのその香りは、かつて結佳の父と母が愛したもの。子供の頃から慣れ親しんだその香りを見つけることが出来たのは、薫香茶房の店主の目利きならぬ香利きの成せる技だった。
「あのね、珱里さん。いきなりこんなこと言うのも何なんですけど、……聞いてくださいますか?」
不意に手を止め、結佳は珱里をじっと見つめた。
「はい、何でしょう。結佳さん」
「まだ……誰にも話したことないんですけど、あたし、夢があるんです」
少女の夢に、珱里が興味を抱かないはずもない。はい、と頷いて、珱里は続く言葉を待った。
「あたしなんかがこんなこと考えるなんて、身の程を弁えろって笑い飛ばされるだけでしょうけど。でもね、珱里さん。あたし、……あたしは……陛下のご婚礼の衣装を手掛けるのが、夢なんです。それが針子としての、あたしの人生での、最後の仕事になっても構わない」
彼女の口から紡がれた夢――その想いに、珱里は小さく息を飲む。
「あたしにはもう、お父さんもお母さんもいないけど……そんなあたしに、陛下はこう仰ってくださったんです。『私でよければ、お前さんの母でも姉でも、何でもなろう』って」
藤倉屋は蓮砂宮とも縁の深い店であり、鎖碧の産着と晴れ着を作ったのは、他でもない結佳の祖母と母なのだ。
「お祖母ちゃんとお母さんが作った着物を陛下がお召しになられたこと、それはお祖母ちゃんやお母さんだけじゃなくて、あたしにとっても誇りなんです。……父さんと母さんがいなくなった時、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもすごくすごく落ち込んでしまって。でも、あたしが作った着物を見て、笑ってくれたんです。だから頑張ろうって思えた」
結佳は震える手をぐっと握り締め、声を絞り出す。この告白が彼女にとって、どれほど勇気のいることであったかを珱里は知る。
「陛下もあたしのこと、とても大切にしてくださってる。……だから少しでも、そのお気持ちに報いたい」
「大丈夫です」
幾つもの幸福を紡ぎ上げてきた、硬い肉刺だらけの手。それを珱里は、しっかりと握り締める。
「絶対に、叶いますよ。結佳さんは、ご自分の抱かれた夢を叶えるお力を、お持ちでいらっしゃるから」
叶うようにとの願いをささやかな温もりに託し、珱里は微笑んでみせた。
「そう、……そうかなあ。あたしでも、出来るかな。――陛下のお役に、立てるかな」
「ええ、きっと。陛下ならきっと、『結佳が着物を仕立ててくれるというのなら、私もいよいよ観念しなければならないね』くらい、仰りそうですし」
鎖碧を真似した物言いに、結佳は思わず目を丸くする。そして、どちらともなく互いに笑う声が溢れた。
――その夜、珱里は夢を見た。
淡い色の桃と蓮で彩られた、鮮やかな紅の着物。
ふんだんに金糸が編み込まれたその着物は、紛れもなく結佳が手掛けたものだ。
それを纏って婚礼の儀に臨む鎖碧を、そしてその姿を涙を浮かべながらも誇らしげに見つめる、今よりも少し大人びた結佳を、珱里は確かに夢に見た。
いつにも増して美しく飾られた鎖碧の隣に立つ人の姿はどこか朧気で、それが“誰”であるかを確かめることは――終ぞ叶わなかったけれど。