夢路の涯てに遠くて近い、何時か何処かで紡がれた話



 ――その時、私は夢を見ていた。色鮮やかで懐かしく、どこか悲しくて寂しい、そんな夢を。

 絵画をそのまま取り出したような美しい風景の中を、私は一人で歩いていた。まほろばの異郷――楽園というものが本当に存在するのなら、こういう所なのだろうと思えるような――そんな景色の中に私はいた。
 風は心地よく、新しい朝のそれのような清々しささえ感じた。けれど夜明けと夕暮れを一気に混ぜて溶かしたような空は、ちょうど宵闇の衣に袖を通し始めた所だった。渡る雲は燃える火の色をしていて、その間を駆け抜けていく鳥は虹の七色に染まっていた。
 辺りに根を下ろした木々に宿った実は熟れて甘い芳香をばら撒いていたし、その側に寄り添うように咲いていた白く可憐な花達は、まるで私を待っていたかのように微笑んでいた。
 深い森の中だった。だが、そんな美しい世界でありながら、生き物の気配がまったく感じられなかった。私はどこかへ向かって歩いていたようだったが、どこへ向かっているのかも皆目見当がつかなかった。いつから歩いていたのかも、わからなかった。そして、不可思議なことに――そもそも歩いているという感覚がなかった。
 例えるならば連れて行かれている、だ。白い靄と霧が立ち込めていて、私は、自分の足があるのかどうかさえ確かめることが出来なかったのだから。
 私は後ろを振り返ることもせず、ただ真っ直ぐに――見えない腕に導かれるように、ひたすら歩き続けていた。

 どれくらい歩いていたのだろうか。水の音を聞いて、私はそこに川が流れているのだということを知った。その場で立ち止まる理由もなかったから、私はそのまま歩を進めた。
 思った通りだった。淡い真珠の色をした水が、悠然と流れていた。白天の山より廻る星々が、声もなく歌もなくただ静かに降り注いでいたようだった。

 もし誰もいなかったら、私はその川を越えてしまっていたかもしれない。何故なら――川の向こう岸に見える景色は、自分が今まで歩いていた場所のそれよりも遥かに美しく見えたからだ。
 そのすべてを確かめることこそ叶わなかったが、岸の向こうからは歌が聞こえた。遠い昔に聞いたことのあるような、懐かしい歌だった。漣のような鈴が打ち鳴らされ、鳥に似た笛の音が空を貫く。太鼓の音は大地を揺るがすような力強さであったし、何よりも人々の声は歓喜に満ちていた。通りすがりの私でさえも、その輪の中に飛び込んでしまいたいと――そう思ってしまうくらいに。

 ――だが。

「……おや、客人でいらっしゃいますか?」

 だが、私はその手前で足を止めざるをえなかった。まるで行く手を阻むかのように、川の手前に、男と女――いや、少年と少女がいたからだ。どちらも似たような……この国の物とは違う衣を纏っていて、少年の方は手に灯りを携えていた。宵闇に紛れ込みそうな、けれど行く末を照らす確かな強さをしっかりと抱いた――命の輝きにも似た光を。
 私の気配に気づいたのか、彼らはそっと振り返った。少年の瞳は深い海のような穏やかな青――そして、少女の瞳は滾る血潮よりも鮮やかな紅色をしていた。
 二人は私を物珍しげに眺めやった末、互いに顔を見合わせて頷いた。それぞれの瞳が、再びこちらへと向けられる。

「――いや……迷い込んで来られたようですね。玉の緒の香りがする方がこのような所に訪れるとは、珍しい」
 少年が口を開いた。大人になりきれていない、少年そのものの声。口元に穏やかな笑みを湛えている、どこか浮世離れした雰囲気を持つ少年だった。
「この先へ進んではいけませんよ? ……貴方様には、まだ、成さなければならないことがあるはずです。それとも……もう成すべきことはすべて成し終えたと……そう仰いますか?」
 続いて、少女が笑いながら囁いた。まだあどけなさすら残る涼やかな声とその瞳の色に、吸い込まれてしまいそうな気がした。
「……なるほど、そういうことか」
 急に身体が自由を取り戻したように思考もほぐれ、川の向こうは死者の往く処らしいということを、私は理解した。

 私はそこでようやく思い出したのだよ。この夢に迷い込む直前まで、高熱に魘されていたことを。
 油断も隙もありはしないな。ささやかな死の覚悟を、黒ノ鳥は見逃さなかったらしい。夢の淵に足を踏み入れた瞬間に、私はこの――夢路の涯ての手前まで攫われていたのだ。
「そのような問いを私に投げかけるということは――どうやら私は、まだくたばるわけにはいかないと、そういうことのようだな。八百万の星神が私を生かすというのなら、私はそれに従おう……どうかね?」
 そんな私の心中を察したのか、二人の少年少女は深く頷いた。少年が緩やかに、灯りを持ったその手を掲げる。
「さあ、背中を向けて。そのまま真っ直ぐにお戻り下さい。貴方を惑わす者達は、我々にお任せ下さいませ」
「君達は……君達は一体」
 命の恩人とも言える彼らの名前すら聞いていないのに、もう別れなければならないということがとても歯痒かった。
 けれど二人は、そんなことをまるで気にしていないように、穏やかな笑みを湛え、深く頭を下げて――
「時が来れば。いずれまた、お目にかかる機会もございましょう――」
 そうして、一面が淡い桜の色で覆われた。降り積もった花弁を風が巻き上げ、そして宵闇の衣を剥ぎ取った。

 そこで目が覚めたのだ。あとは――この通りだよ。

 あの子達は――もしかすると、この現世うつしよと黄泉の国とを隔てる川の、番人なのかもしれないな。ああ、今度会った時にはゆっくりと話が出来ればよいのだが……



 不思議な色の空の下を、灯りを携えて歩く少年達を見つけたら――
 決して後を追ってはいけないよ。夢の世界に迷い込んでしまうから。

 囚われても構わないと言うのなら、止めはしないけれどね。


20051014




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