――満ちた月の面を駆け巡るのは何の影?
鬱蒼と茂る木々の葉の間を、風が走る音だけが聞こえる。
男は、その時自分がどこにいるのかすぐに思い出すことが出来なかった。重い瞼を辛うじて持ち上げただけの細い視界の中にあるものと言ったら暗闇くらいで、まるで音のない地獄にでも落とされたかのような錯覚すらぼんやりとした脳裏に描き出されるほどだった。
――はたして自分はいつからここにいたのだろう。
闇の中で思考の糸を手繰り寄せながら、それでもおぼろげな輪郭を見つけ出すまでにさほど時間はかからず、男は、その時自分が暗い森の中にいるのだとようやく思い至った。
何故――その理由を問う前に、男は、己の名を記憶の中から探そうとする。
己が己であるという証を、拾い上げるのは容易かった。
男は、名を桃助と言った。
だが、名を思い出した所でこの状況がどうにかなるわけでもない。
何故――桃助は改めて、自分がこのような暗く深い森の奥にいるのかを考えた。
ああそうだ、兎を探していたのだ。桃助は傍らに落ちていた弓と矢筒を見て、他人事のように思い出した。
淡い金色の毛に、瑠璃色の眼の、まるで月からやって来たような美しい兎だった。天女が化けたのだとさえ、思った。
この世のものとは思えないその兎を何としてでも手に入れたくて、桃助は無我夢中でその兎を追いかけた。
しかし兎はとても素早く、言うまでもないがそう簡単に射止められるものではない。
息を潜めることも足音を殺すことも忘れ、歩き慣れた道をも外れ、道なき道を行き、いつしか兎の姿を見失っていることに気づいた時、桃助は同時に帰り道も見失っていた。
あの兎は本物だったのだろうか。それとも何かのまやかしだったのだろうか。
今更答えを得た所でこの森を抜けられるわけでもない。思いを寄せた所で兎が振り向いてくれるはずもない。振り向く以前に姿が見えないのだから。
桃助は途方に暮れながら、深々と息を吐き出した。やや遅れて目を覚ました腹の虫が一斉に鳴き始め、空腹であることも実感する。これだけでも忘れていたかったと思った所で後の祭りだ。
「……しくじったなぁ。こりゃ。俺としたことが」
冷静に考えてみても追うべきではなかったと、悔いている場合でもない。ここにいる限り家には帰れない。
どれほど深いのか想像もつかないが、通りすがりの旅人が救いの手を差し伸べてくれるような場所でもないだろう。
天女に化かされるならともかく、兎に化かされたなど死んでも死に切れない。あの兎が本当に天女が化けたのだったら、死んでもいい――とは、やっぱり思えなかった。
桃助は腹の虫を諌めるように力を込めると、やっとの思いで立ち上がった。
風が嘲笑うかのようにびゅう、と鳴いて、木々の梢が獣の足音のようにさざめいた。
元来た道を辿ろうにもそれがどこだかわからない。どちらに行けばいいのだろう。考えてもわかるものではない。
だが、もしかしたら、歩いていればその内抜けられるかもしれない。
逆の可能性のほうが限りなく高いのだが、それでもそう思わなければ歩けそうになく、桃助はそれこそ天女――否、遍く星神に祈るような気持ちを抱きながら、弓と矢筒を拾い上げ、一歩、足を踏み出した。
頭上を覆う青葉の天蓋はいつ果てるともしれなかったが、しばらく歩みを進めて行く内に、桃助は前方に薄っすらと光が差し込んでいるのを見つけた。月が出ているのだろう。それだけでも救いだ。
それはまるで天の国に繋がる階段のようだったけれど、桃助はそちらへ向かう歩みを止めることが出来なかった。
やがて頭上を覆う森の天蓋は払われ、桃助の見上げた先には空があり、星が瞬いていた。
そして、丸い、丸い、金色の月が輝いていた。
桃助は両の瞳に金色の円を映しながら、不意に、ごくりと息を呑みこんだ。
丸い金色の月――その面に、桃助が探す兎がいた。
紛れもない、金色の兎だった。
桃助は我を忘れて走り出していた。今度こそ仕留めてやるという思いで頭が一杯で、腹の虫が上げた悲鳴も聞こえていなかった。
それは単なる笑い話で片付けることも出来る勘違いだ。月の表面に本物の兎が走っていたとしても、地上からは遠くて――遠すぎて見えるものではない。言うまでもなく、桃助は月の表面の模様を兎と勘違いしたのだ。
だがその時、桃助は間違いなく、月の表面を駆ける兎の姿を見ていた。単なる月の模様が、桃助の目には本物の兎としか映っていなかったのだ。
桃助は兎を、月を、追いかけて、追いかけて――
そしてまた、兎に逃げられて倒れた。
――倒れた後のことを、桃助はよく覚えていない。どこで倒れたのかも、兎が最後に何を言っていたのかも。
ただ気がついたときには周囲は暗闇の森ではなくて、眩しさに思わず目が開けられなくなってしまうくらいには、そこに光が溢れていた。
祭囃子のようにも聞こえる喧騒と、人の息吹。生きている世界の声。
「お、気づいたぞ。運がいい奴だなあ」
「本当に死んでるのかと思ったわ! 心配して損しちゃった」
「……大丈夫ですか、旦那様」
輪のように囲んで見下ろす人々の顔。
「ここは――」
「蓮砂の都、祭邑にございます。今医者を呼びました。すぐに来ますよ」
囲んでいる中の一人がそう言った。額に手を添えられる。
助かったのだと、思った。その手の温もりと、一斉に上がった腹の虫の抗議の声で、ようやく、自分はまだ生きているのだと実感出来た。
「兎を知らないか」
桃助は真面目な顔で、己に声をかけた男に問いかけた。男は緩く首を傾げた。
「――兎で、ございますか?」
「そう、兎だ。あの月のような色をした……」
「兎を追いかけて、ここまで?」
その場にいた全員がさも不思議そうな疑問符を貼り付けて、互いに顔を見合わせるのが見えた。桃助は己の発言がそんなにおかしかっただろうかと、首を傾げる。やがて、その意図を察してくれたらしい男が、安堵の滲む表情を浮かべて言った。
「旦那様は運が良かった。兎を追いかけて無事に帰ったという話は、この辺りでは聞きません」
桃助は息を飲み込んだ。その理由を問おうと首を傾げたが、声が出ない。けれど相手の男はこちらの疑問を汲み取ってくれたようだった。
「……兎は所構わず駆けて行ってしまうでしょう? それに、わざわざ食われるために人のいる場所にやってくるとも思えない。この辺りでは、鳥を追えと言います。朱ノ鳥という鳥がおりまして、この蓮砂国を象徴する鳥なのですけれども。月の面に鳥が見えたら、それは皇帝の元へ帰る途中だから――と……ああ、ほら、今日も大きな鳥が飛んでいる」
見上げた月の面に見える模様は兎を見た時と同じだったけれど、桃助にはもう、それは大きな翼を広げて羽ばたく鳥にしか見えなかった。
――さて、満ちた月の面を駆け巡るのは、一体何の影?