第一章 世界樹の子供たち3
「先生……」 「こんにちは、オズウェルくん。シアちゃんは……さっきぶりだね。シアちゃん、オズウェルくんの居場所を知っていたのに、隠していただろう?」 「隠してなんていません。たまたま散歩に来た先に、オズがいただけです。それに、先生はそうやって、走り回るくらいがちょうどいいんですよ。体力もつきますし、そうしたら風邪なんか引かなくなるでしょう?」 「それはまあ、認めるけれどね……でも、年寄りをあまり走らせるものじゃない」 「先生が年寄りなんて言ってたら、ベルメールおばあさまが怒っちゃいますよ?」 「ああ、面目ない。あまりおじさんを走らせるものじゃない……かな?」 ヘルメスはシアの言葉を証明するかのように、肩で大きく息をしていた。項の辺りで結われている茶色の髪も、少し寝癖が残っているせいもあるかもしれないがかなり乱れていた。髪は島に訪れてから切っていないらしく、下ろすと胸の辺りまで届くほどの長さである。着ているシャツは昨日のそれと同じような色合いで、もしかしたら同じものなのかもしれなかった。だが、彼がそういったことに無頓着なのはオズウェルもよく知っていた。 走り回ってまで探してくれなくてもいいのにと、率直にオズウェルは思ったが、やはり口にはしなかった。それでも探さずにはいられなかったと、そんな答えが返ってくるのは目に見えている。 「……それで、ぼくを探していた理由って、何ですか?」 とにかく話を終わらせたくて、オズウェルは楽しそうに言葉を交わす二人の間に口を挟んだ。ヘルメスはそこでようやく、自身の目的を思い出したかのようにぽんと手を打った。シアが興味深そうな表情でそれを見上げる。 「そうだったね、オズウェルくん。タチアナさんのお子さんは今日も元気だったよ。それもあるんだけど、申し訳ないが今はそれどころじゃない。きみの精霊は……もしかしたら、とんでもないものかもしれないよ?」 ヘルメスはよろけながらも彼らの正面にあぐらをかいて座り込み、ずれ落ちそうになった丸い眼鏡を持ち上げた。眼鏡の奥から覗く茶色の瞳は、主に好奇心で輝いているのが常だ。無精髭が目立つ割には、幼い子供のような笑顔。それを見せるということは、彼が新しい何かを学んだことを意味している。 余談ではあるが、彼の言う『タチアナさん』とは、オズウェルにとっての従姉に当たるタチアナ・ロッテ・クロスティアという女性のことで、夫であるスヴェン・ラスフィル・クロスティアとの間にできた子の出産を、間近に控えている。彼らの子が生まれる瞬間に立ち会うのも、ヘルメスの希望のひとつだ。あわよくばその子を取り上げてもいいとさえ意気込んでいるのだから、かける期待はなかなかのものだろう。 「……何ですか、とんでもないものって」 「ああ、でも、オズウェルくんは知っているかもしれないね、そんなに期待しないでくださいってまた怒られてしまうかな。ええと、今日……老ベルメールからとてもいいお話をうかがってね」 この言葉でヘルメスの予想が見えてしまうのも、付き合いの長さのせいだろうか。オズウェルはあえてその続きを自分から言わずに、待つことを選んだ。ここで怒ったりしたら決してヘルメスのような大人にはなれない。 たとえばオズウェルがどんなに冷たくヘルメスに接しても、ヘルメスは決してオズウェルに怒りを見せたりはしない。それどころか、まるでオズウェルの心境を理解しているかのように、穏やかな反応が返ってくるのが常なのだ。どんなに刃のような感情を投げつけようとも、真綿に包まれて手渡しで返されてくるようなものだ。 大人と子供の決定的な差を、その度にオズウェルは思い知るようだった。だから自分は大人になれずに精霊も孵らないのだと、オズウェルはその度に違う所で落ち込んでいた。 「これはあくまでも推測にしか過ぎないのだけれど、オズウェルくん、きみの精霊は……光の精霊かもしれないよ?」 光の精霊。オズウェルの予想は的中した。オズウェルの予想が当たったことにシアが嬉しそうな顔をしているのがよくわかる。オズウェルは心の中でこっそりと溜め息をついた。 「……まあ、その、近いうちに先生の口から『光の精霊』って出てくるだろうなとは思ってたんですけれども、その……ええと、答えとしては三角ですね」 三角は花丸、二重丸、丸の下にある。ヘルメスに言わせるならば、正解から遠からず近からず、という意味だ。 「……光の精霊が現れるのは、世界が滅びる直前とか、千年に一度とか、それくらいですから……今、この瞬間に世界が滅びそうっていうのなら、可能性はあるかもしれませんけれど。そんなに期待されても応えられるかどうか」 古来より、光は万物を司る存在だと言われてきた。 この世界の始まりにおいて、最初に現われたのは光である。その光の種子が世界樹となり、葉が空に、咲いた花から零れ落ちた新たな種子が大地になった――これが、この《時渡りの民》の里に伝わる天地創造の伝承だった。大地だけではない。精霊も、人も獣も、花も――この世界を構成するすべての存在が、世界樹の種子から生まれたのである。ヘルメスが知っていたのも、おおよそ、似たような話だった。 つまり、光はすべてを――すべての始まりを司っているのだ。 オズウェルの言葉の通り、光の精霊の力はそう簡単に扱えるようなものではなく、事実、今生きている《時渡りの民》の中で、光の精霊を片割れとしている者は誰もいない。世界樹の化身とも言われる光の精霊がこの世界に姿を見せるのは、数百年、あるいは数千年に一度とも言われているが、それも定かではない。しかも、光の精霊が現われるのは、決まってこの世界が滅亡の危機に瀕した時であり、世界を再生するためにその力は用いられるのである。オズウェルが聞いたのは、《時渡りの民》たちの長である老ベルメールが語る、夢物語に似た出来事ばかりだ。 「いや、誰よりもオズウェルくんの精霊だもの、期待はするさ。光の精霊はとても強い力を持っていると聞いた。だから、殻を破って外に出るための力がまだまだ足りていないんだ。きみの精霊がなかなか孵らないのも、これで説明がつくんだよ。そうじゃないかな?」 ヘルメスの瞳には、絶対的な自信が宿っているように見えた。その眼差しに揺さぶられてしまいそうだった。敵わないと、思い知らされるようだった。 ――否、敵わないのは本当なのだ。どんなに背伸びをしても、この人の大きさには遠く及ばない。 「確かに、そう考えることだけならぼくにだってできます。でも、先生、ぼくはあなたが思っているほど、強い人間じゃないんです」 オズウェルは声を震わせて、力なく呟いた。行き場を失くした嫌な感情が溢れ出そうとするのを、押さえつけるように掌を握り締める。爪が食い込んでいるかもしれない。オズウェルは一瞬だけそう思ったが、その思いすら追い払うようにさらにきつく拳を握る。 「……オズウェルくん」 「期待しないでください。何度も言ってるじゃないですか。ぼくは……先生、きっとあなたを裏切る。ぼくの精霊は――ノルは、きっとぼくと同じ出来損ないなんだ。そうに決まってる」 次第に声が荒くなっていくのを、オズウェルは自覚していた。どうしてヘルメスと話しているとこんなにも感情的になってしまうのだろう。思ったところで止められるはずもなかった。いつもと同じように、嫌な気持ちをぶつけてしまうだろう。その度に後悔するのだ。ヘルメスは決して怒らないから。自分が子供だという、わかりきっているその事実を改めて突きつけられるようで―― そんなオズウェルの胸中を理解しているかのような、ヘルメスの声はとても穏やかだった。 「……拳を解きなさい。そのままではきみの手が傷ついてしまう」 オズウェルの表情が強張ったのは、何も告げられた言葉のせいばかりではなかった。いつの間にか伸ばされていたヘルメスの手が、オズウェルが避ける間もなく彼の腕を掴み取ったからだ。硬く握られたその手をゆっくりと解いていきながら、ヘルメスはさしたる間も置かずに続ける。 「確かに、私が思っているほどきみは強くないかもしれない。だけどね、オズウェルくん。逆にきみが思っているほど、きみは弱くはない。これは、確かだよ。強くないと、出来損ないだと、決め付けてはいけない」 「……っ!」 オズウェルはヘルメスの手を力任せに振り払って立ち上がった。服についた草を軽く払い落としながら、表情を歪ませてヘルメスを見る。 「先生、ぼくは」 「オズ」 シアの眼差しがとても悲しそうで、オズウェルはもうやめてくれと叫びたかった。しかし、その願いが声となって出てくることはなかった。ヘルメスの瞳に射竦められて、一瞬、声を出すことすら忘れてしまった。彼の眼差しは、まるでオズウェルの心の中のすべてを見透かしているのではないかという、そんな錯覚すら抱いてしまう。 「それに……きみが期待を裏切ってくれるというのなら、むしろ望むところさ。願わくば、いい意味で裏切られたいものだけれどね」 心の底からこの少年を信じきっているのだろう、そんなヘルメスの笑顔。オズウェルは半ば無意識の内に、逃げるように駆け出していた。これ以上彼の笑顔を見ていたら、どうにかなってしまいそうだった。 シアが悲鳴じみた声で何かを叫んだが、それはオズウェルの耳には届かない。 オズウェルは一度も振り返らずに、そのまま丘を駆け下りていった。その姿が消えるまでに、さほど時間はかからなかった。 |