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第一章 世界樹の子供たち


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 一人の少年がいなくなっただけで、丘を渡る風がどこか物寂しそうに泣き始めたように感じる。もちろん、精霊と意思を交わすことなどできないヘルメスにとって、それは何の根拠もない考えなのだが、それでもあの少年に責められたような気がして、どこか痛かった。
「……まいったな、調子に乗りすぎてしまった。これだからオズウェルくんに嫌われてしまうんだね、私も。……まだまだだなあ」
 深い溜め息。幾重にも重なって張り詰めていた緊張が、ふっと緩んだのだろう。ヘルメスは寝癖が取れないままの茶色の髪をくしゃくしゃと掻き回しながら、困ったように笑って肩を竦めた。
「シアちゃん。やっぱり私は、オズウェルくんが言うように、彼に過剰な期待をしすぎているかな? ……彼の精霊を見たいと望むことは、彼に余計な負担をかけてしまうだけかな?」
 落胆よりは、やはり疲労のほうが勝っているようだった。ヘルメスはやや肩を落としながら、少女の背中に向かって問いかける。シアは胸に手を当てて、オズウェルが去った方向をじっと見つめていたが、やがて小さく息をつき、ヘルメスのほうに振り返った。
「そうかも、しれませんね。でも……」
「……でも?」
「何よりも、素直じゃないんです、オズは。きっと、こうやって優しくされることに、慣れていないから。『先生』のことが嫌いなんじゃないです。ただ、優しくされて、どうすれば、どう答えればいいのかわからないだけ……不安で、いっぱいなだけなんです」
 ヘルメスと同じように、どこか困ったような笑顔でシアが答えた。予想していた答えからどれだけかけ離れていたのか、ヘルメスは心底意外そうに瞬きを繰り返してから、やがて、安心したように笑った。そうして、長く息を吐き出す。
「そう、なのかい? 私は、彼に嫌われてはいないかい? うぬぼれても、だいじょうぶかな? ……そうだと、嬉しいなあ」
「そうですよ。だからオズのこと、嫌いにならないであげてくださいね? わたし、オズのところに行きます。あと――母が、今日の夕飯は先生の大好きなメルルのシチューにしますって言ってましたから、ちゃんと日が暮れる前に帰ってきてくださいね。じゃないと、オズは食いしん坊だから、先生の分、すぐになくなっちゃいますよ?」
 シアもまた立ち上がり、弾んだ声でそう告げた。ヘルメスがしっかりと頷くのを見届けてから、手を振り、ぱたぱたと丘を駆け下りていく。
 空を纏ったような後ろ姿を、彼女と同じように手を振って見送りながら――その姿が見えなくなったところで、ヘルメスは糸が切れた操り人形のようにぱたりと仰向けに倒れ込んだ。島を走り回った疲れが、今頃波のように押し寄せてきたらしい。緩く長く息を吐き出してから、同じように吸い込む。幾度か、そんな深呼吸を繰り返す。
 日が傾くにつれて涼しくなってきた風は、あたたまった身体にはちょうどいい心地よさだった。
 オズウェルが先ほどまでそうしていたように、ヘルメスは空を見上げる。空の青い色と、白い雲と、そして時折その間を横切っていく鳥たちの群れ。それは古より続く絶対的な種としての営みで、他者――特に翼を持たない人間の介入する余地など、どこにもない。
 しかし、彼らのように翼がないことを、ヘルメスは歯がゆく思った時もあった。彼らのように空を飛ぶ術を持っていたら、この広い世界をどこまでも――それこそ、世界の果てまでも飛んでゆくことができるのに、と。
 けれども、空を飛ぶ術を手に入れてしまったら、今度は大地を駆ける喜びを忘れてしまうのかもしれない。こうして空に憧れる気持ちを、失ってしまうのかもしれない。
 どちらがいいのかなど、ヘルメスにはわからない。誰もが納得できるような答えなど、彼はおろか、誰にも出せない。どれほどの時間をかけようとも、出すことなどできない。
 ただ今は、与えられた力のすべてを用いて懸命に生きるだけだ。迷いながら、苦しみながら、時に立ち止まることがあっても、それでも前に向かって進むだけだ。
 この地上に生きる者たちにできることは、それだけなのだ。
「もちろん、嫌いになることなんかないさ。それに……間違っているとは思っていないよ、オズウェルくん――だって、きみは……」
 紡ぎかけた言葉は、風が攫っていった。紅茶色の瞳が閉じられ、穏やかな寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからない。
 風が奏でる歌声も、頬をくすぐる草の匂いも、ヘルメスにとってはもはや夢の中の出来事。
 次に彼が目を開けるのはすっかり日も暮れた後だったというのは、また、別の話だ。


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