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第三章 空の歌声


2

「……その人は私を知っていると、そう言ったのかい?」
「ええ、先生の名前を出してから、ずっと会わせろって言ってますよ。ここは天の国じゃないって、先生の口から直接説明してやってください。何せ天国の番人に名前を知られたら魔界に連れて行かれるって言って、名前すら教えてくれませんからね。まるでぼくたちは死神扱いだ」
 難破船のただ一人の生き残りであるその人物が、ようやく意識を取り戻したその日。数日前の嵐は嘘だったのではないかとすら思ってしまえるような、よく晴れた日のことだった。強く叩きつけられたようなノックの音と、オズウェルが部屋に入ってきた時のあからさまに不機嫌そうな表情がヘルメスは気にかかっていたのだが、話を聞けばなるほど、オズウェルの眉間に深い皺が刻まれているのも無理はなかった。
 恩を売っているつもりは毛頭ないだろうが、仮にもこちらは助けた側である。ヘルメスほどではなかったものの、この数日間、ずっと昏睡状態に陥っていたのを《時渡りの民》たちは手厚く看病していたのだ。それを開口一番死神扱いされては、機嫌も悪くなるだろう。特にオズウェルは、こういった感情は特に顕わにする。たとえ自分自身に向けられた言葉でなくとも、彼にとっては同じだ。
 オズウェルにとっては『よそ者』以外の何者でもない来訪者のことを思い、また、二年前の自分を思い出しながら、ヘルメスは読み返していた日記帳を閉じると、ベッドから降り立った。

 それまでむき出しの警戒心を解くことがなかった黒髪黒目の男は、ヘルメスの姿を見たとたんに目を丸くした。ヘルメスもまた、その男の姿に一瞬、扉を開けたままその場に立ち竦んでしまう。
「や、こいつは驚いた。本当に生きていたのか、ヘルメス。本物か? 化けて出てるんじゃねえな? 俺ぁてっきり天の国にでも迷い込んだと思ってたんだが――」
「……ああ、おかげさまで悪運ばかりが強かったらしいよ。お互い様かな、アドニス。まさか……きみがこの島に来るとは思わなかった」
 口ばかりは達者ながら、男はヘルメスを呆けたように見つめていた。ヘルメスは困ったような笑みを浮かべてベッドの側まで歩み寄り、力なく頷いてみせる。
「オズウェルくん、彼はね……」
 扉の側に佇んだまま二人のやり取りを見守っていたオズウェルに、ヘルメスが振り返った。それを遮るように、男が口を開く。
「アドニスだ。アドニス・J・ブラウン。こいつとは昔から付き合いのある、古い友人でね。一緒に世界を駆け回ったこともある。光の精霊を手に入れたいなんて話を聞いた日にはどんな酒の肴かと思ったりもしたが――まさか、実際に精霊ってのが存在してるとはなぁ……ここがあれだろ、伝説に聞く、精霊の住む島なんだろう? 坊や」
「……アドニス、ちょっと」
 ヘルメスとの対面を果たした途端にべらべらとしゃべり出したアドニスの言葉にオズウェルの表情が鋭く変化していくのを、ヘルメスは横目に見やっていた。お世辞にも機嫌がよさそうと言えないその表情は明らかに、ベッドの上の男を警戒、もしくは敵視しているようなそれである。
 このままではいけないと、ヘルメスは直感的にそう悟った。だが同時に、一度舌に拍車がかかったこの男をそう簡単に止めることなどできないということも、思い出していた。
「あれだろ、精霊ってあのちっこい奴らだろ? 火とか水とか好き勝手に出せるんだろう? まあ……あれを愛でたいって気持ちもわからんではないがなあ。俺はおっかなくて触れそうにねえや」
「アドニス――」
 訂正を求めて制止するように呟かれたその名前。しかし、ヘルメスの思いはアドニスに届くはずもなかった。二人を交互に見上げていたアドニスが、思い出したように声をあげる。
「ところでヘルメス、お前が欲しがってた光の精霊とやらには会えたんか?」
「……光の精霊は、人の元には生まれませんよ。それに、精霊は――対となる人間としか意思の疎通はできませんから、先生――ヘルメスさんや、あなたにも……手に入れることなんかできないんです。積もる話もあるようですし、ぼくは先に失礼しますね」
 アドニスのその問いに、答えたのはオズウェルだった。言葉そのものは穏やかだが、先ほどまでにくらべると、明らかに突き放すような口調だった。それを感じ取ったからこそ、ヘルメスは露骨に顔を顰め、額を手で覆う。オズウェルは半ば睨みつけるように二人を一瞥し、くるりと踵を返した。
「……すまない。でも違うんだ、オズウェルくん。その――アドニスはちょっとしたことでも大げさに表現するのが癖で――」
「何が違うと言うんですか? ……何も違わないじゃないですか……!」
 扉の取っ手に手を掛けたまま振り返ったオズウェルに、ヘルメスは続けようとした言葉を息ごと飲み込んだ。まるでヘルメスが初めてこの地に訪れた頃――二年前に向けられていたそれと同じオズウェルの眼差しに、飲み込まざるを得なかった。
「あなたの口から言い訳なんか聞きたくありません。もうたくさんだ……やっぱり、あなたも外の人間なんですね、ヘルメスさん」
「オズウェルくん――」
 外と中、それはオズウェルとヘルメスを隔てる拒絶の言葉だった。オズウェルはそう言い捨てると、あとは振り返らずに部屋を後にした。扉が閉まるその音すら、ヘルメスを拒絶しているかのように重く響き渡る。脳裏を過るのは先日の少年との会話と、その笑顔だった。それが瞬く間に失われてしまったのかもしれない――ヘルメスにとって、絶望と言っても過言ではない瞬間だった。
 追いかけて謝り倒したい衝動に駆られるが、今はかえって逆効果だ。ああなってしまった以上、オズウェルにはどんな言葉も響かないことをヘルメスは知っている。心のどこかで冷静にそう告げる理性が、辛うじてヘルメスをその場に繋ぎ止めた。
「……なぁヘルメス、ひょっとして俺ぁ、不味いこと言ったか?」
 ややあって、アドニスの口がためらいがちに開かれる。ヘルメスは両の拳をぐっと握り締め、つとめて平静を装いながらアドニスのほうに向き直った。
「……ひょっとしなくてもね、アドニス。きみが怪我さえしていなければ、殴りつけていたところだよ。第一、私は精霊を手に入れたいなんて一言も言っていない。頼むから、人の話をちゃんと聞かない癖だけはそろそろ直してくれ」
「すまんすまん。まあそう固いことは言うな、言葉のあやってやつだ。それにな、お前さんのほうこそ細かいことを気にしすぎなんだ。ってか、俺を殴るなんてそいつは物騒な話じゃないか……ヘルメス、お前あの坊やをよほど目にかけてたってことか」
 何もかも言葉のあやで済ませられるものならこれほどに思い悩むこともないのだろうと、ヘルメスは胸中で頭を抱えた。高熱でうなされていた時よりも疲れてしまったような錯覚に陥り、軽く目眩すら覚える。ベッドの側の椅子にどさりと腰を下ろし、苦渋に満ちた表情で額を押さえ――ついでに肩もがくりと落とし、いくら吐き出しても足りない、そう言わんばかりの盛大な溜め息をついてみせたが、幸運の女神が去っていったくらいで、当のアドニスにはさほど手ごたえがなさそうだった。
「……きみの言葉のあやは時として致命傷にもなり得るんだよ。自覚がないだろう? ……もう少しだったかもしれないのに、私がここに来てからの二年間が、泡になって消えてしまったような気分だ」
 この期に及んでまでこんな詩的な比喩がすらすら飛び出したことに、ヘルメスはふと気がついて苦笑する。どんな窮地に立たされても、詩人の心というのは忘れられないもののようだ。
 長い時間をかけて築き上げた信頼であっても、崩れ去るのはあっと言う間だ。きっかけなど、ほんの些細なことである。そして一度崩れてしまったら、それを元の状態に戻すことは容易ではない。同じように組み立てたとしても、どこか不自然で、ぎこちない部分が必ず残る。
 もちろん、すべての事柄に共通しているわけではないのだが、あまりにも遠ざかっていたせいですっかり忘れていたらしい戒めが、ヘルメスの心に頑丈な鎖のように絡みついた。先ほどの詩的な比喩ではないし、信頼の大きさや固さは目で見て測れるようなものではない。だが、手のひらに載るくらいの大きさの石をスプーン一杯分の砂糖が溶かしてしまうような、そんなものだろう。石はもっと大きくてもいい。
 やはり、いくら謝っても謝り足りない。一番の問題は、彼がこの謝罪を受け入れてくれるかどうかだった。
「彼は……私にとっては特別なんだよ。残された最後の希望と言ってもいいかもしれない、そんな少年なんだ。アドニス――怪我人が煙草なんか吸うな」
 シャツの胸ポケットからしけた煙草を取り出して口にくわえたアドニスに、ヘルメスは溜め息を重ねる。煙草を噛み締めるアドニスの不満そうな表情になど、構っていられる余裕はなかった。
「固いこと言わずに気分だけでも味わわせてくれよ。どうせ火をつけられる道具はねぇんだし、吸いたくても吸えねえんだからよ……ああ、火をつけたかったら、火の精霊とやらに頼めばいいのか。なかなか便利じゃねえか、この島はよ」
 黙り込んだヘルメスに、アドニスはふと怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんだ、最後の希望って。あの坊やは光の精霊の持ち主とか、そういう落ちか? そういや、あの坊やの精霊ってのは見てねえな。青い髪の嬢ちゃんと同じくらいの年に見えるが……いねえのか?」
 青い髪の少女というのは、言うまでもなくシアのことだろう。なるほど、彼女がアドニスの世話をするためにここに来ていても、何らおかしくはない。ヘルメスは首を左右に振った。
「それはわからないし、オズウェルくんの精霊の《卵》がまだ孵っていないのも事実だけれど、オズウェルくんの言う通りさ。光の精霊は、人の元には滅多に生まれない。彼らの史実によれば、最後に生まれたのはもう何百年も前の話だそうだ」
「よくわからんが、そういうもんなのか?」
 この男に、精霊についてヘルメスがこれまでに得た知識のすべてを用いて説明したところで、同じ言葉で一蹴されるのは目に見えている。それ以上は何も言わずに、ヘルメスはただ黙って頷いた。それこそ、精霊について目を輝かせて語り始める彼の姿を想像していたのか、逆にアドニスは拍子抜けしてしまったようだった。
「ヘルメス、そういやお前……しばらく見ないうちに随分と変わったよなぁ。平和すぎて毒気を抜かれたか? まあ、二年もこんなところにいたんじゃ……何もかもがなまっちまうだろうがなぁ」
「……私が? ……この二年で、何か変わったことでもあったのかい?」
 少なくともヘルメス自身は、あまり変わったという自覚はなかった。この島に訪れる前と後で何が変わったかと聞かれても、強いて挙げるほどのことは特にない。少し体力がついたとか、《時渡りの民》や精霊について多くの知識を得たとか、あるいは、野良仕事のこつを掴んだとか火を使った料理が上手くなったとか――せいぜいそれくらいだ。
 そんなヘルメスの胸中など知る由もなく、アドニスは急に声を潜める。
「……まともだな? まともな頭でそれを聞けるってことは、やっぱり何も知らねえみてえだな。我らが皇帝陛下直々の命で、精霊一匹につき百万フラウかかってんだぞ」
「……なんだって……?」
 さすがのヘルメスも言葉を失った。確かに精霊はその存在が希少であると謳われているが、この世界では十フラウもあれば一日分のパンが買える以上、いくら何でも桁外れの金額ではないだろうか。それほどにまで急を要する事態が進行しているのだと、予想するのは容易かった。
 考えながら、この島に来てから二年、その間の外の情勢をほとんど把握していないという事実に突き当たり、ヘルメスは半ば愕然とする。それでも、一つの国が莫大な報奨金をかけてまで精霊を欲する理由と言えば、思い浮かぶのは一つしかなかった。
 それはたとえば、金持ちの道楽などという話で済まされるようなものではない。
「陛下は……隣国と戦争でも始めるつもりでおられるのか……!?」
「その通りさ、ヘルメス。お前の消息が掴めなくなってから、すぐだ。すぐにアーデルベルト陛下が崩御されてな、毒殺だのなんだの言われているが、真相はそれこそ闇の中だ。ともかく、よりによってあの馬鹿息子が皇帝になりやがったんだ。お前も知ってるだろ? ハロルドの坊やさ」
「……ハインリヒ殿下はどうなされたんだ?」
「知らん。消えちまった。文字通り行方不明だ。とにかく、今はそのハロルドの坊やが皇帝なんだ」
 ちぎれそうなほどに煙草を強く噛みながら、アドニスは重々しい表情で呟くように言った。ヘルメスは無言のまま頷き、話の続きを促す。
「いの一番に何をするかと思ったら、あろうことか軍事力の強化と来たもんだ。自分は腑抜けじゃないと知らしめたかったんだろうが、まあ逆効果だろうな。前帝時代の文官でも、逆らった平和主義者は一人残らず首が飛ぶか良くて国外追放だ。国はもう奴の言いなりさ。その上あの馬鹿息子、帝位についてる間に大陸を支配するなんて公言したもんだから、十年かかった軍事協定が一晩で破綻しちまったよ。どこでそれをやらかしたと思う? よりにもよって平和式典をやってた最中にだ」
 ヘルメスやアドニスが主な活動の拠点としていたのは、この島より遥か北方、世界最大の広さを誇る北ノアール大陸にある、エーデルシュタイン帝国だった。前の皇帝とその息子たちのことは、ヘルメス自身は直接の面識こそないものの、知っている。
 穏健で平和主義者だった父王アーデルベルトと、第一皇子ハインリヒ、そして腹違いの第二皇子ハロルド――ハインリヒは父王の志を受け継ぐに相応しいと言われ、ハロルドは野心家として有名で、ある意味煙たがられていた存在と言っても過言ではなかった。
 どういった経緯でハロルドが皇帝の位を継いだのか、それは人々の知る所ではないのかもしれないが、ヘルメスにとってそれはまるで予想外どころか、予想の余地すらない事実だった。
「……あの悪夢を、再び繰り返すと言うのか……っ!」
「あの坊やは知らないからな、どうせ玩具遊びの延長上のつもりなんだろうよ。おかげで、今じゃ大陸中が戦争の準備で沸き立ってる。十年前と同じ……いつ始まってもおかしくないくらいだ」
 眩暈がするような錯覚に襲われて、ヘルメスは深く息を吐き出した。多大な犠牲を払って彼らが掴み取った大陸の平和は、どうやらこの島で外界とは無縁の生活を送っている間に、それこそ泡のように消えてしまっていたらしい。
「まあともかく、精霊ってのは魔法が使えるんだろ? 何もないのに火を起こしたりとか、そういうことができるんだろ? あの小さいのが一匹百万フラウだぞ。それがこの島に溢れるほどいるときたもんだ。それこそ世界樹の導きかもしれんと思ったくらいさ。坊やのためにってのは気分が悪いが、精霊を見りゃ喜ぶだろう。まあ、世界を護るらしい精霊も、陛下の前では格好の玩具にしかならねぇだろうがな」
「……アドニス」
 百万フラウの大金を思い浮かべながらだらしなく頬を緩めるアドニスとは対照的に、ヘルメスの声からは笑みが消えていた。
「時代は変わったんだよ、ヘルメス。今のこのご時世、どれだけの狩人が命を賭けて精霊を探していると思ってる? 一匹でも十年は暮らせる。三匹狩れば一生遊んで暮らせる額だぞ」
「――アドニス……っ!」
 ヘルメスはアドニスの胸倉を力任せに掴み上げた。がたんと椅子の倒れる音がする。込められた力に一切の加減はなく、ヘルメスの両腕は小刻みに震えていた。
 ぽかんと空いた口から煙草を落とし、呆然とヘルメスを見上げているアドニスに、ヘルメスは低い声で告げる。
「せめて……一人と言ってくれないか。精霊は虫や獣とは違う。それに……彼らの力は利用するものじゃない。私利私欲のために使えるものではないし、使わせない。彼らは――彼らは、兵器でもなければ玩具でもない。彼らだって、ちゃんと生きているんだ……!」
「なんだ、ご機嫌斜めってやつか? ……こりゃ悪かった」
 アドニスは軽く肩を竦めただけだった。その答えに、ヘルメスはそれ以上の謝罪を求める気力さえ薄れてしまう。息をつき、アドニスの胸倉を掴み上げていた両手を投げるように離した。怒りを紛らわすように倒れた椅子を元に戻したが、腰を落ち着けはしなかった。
「ま、この島で何があったかは知らねぇし、聞かねぇ。こうしてまた、互いに五体満足で会えるとは思っちゃいなかったが……いい機会だったのかもしれんしなぁ……ここまで来たんだ、お前にも協力してもらうぞ? もちろん報酬は山分けだ」
「……断ると言ったら?」
「断る理由でもあるのか? まあいい。こちとら生活がかかってんだ。今更手を引くわけにもいかなくてな。どうしても止めたければ、それなりの手段を取りゃあいい。お前ならできるだろう?」
「…………」
「まあ何にせよ、俺がまともに動けるようになるまで、この分だと一週間はかかるだろうな。その時までに、答えを出しておけよ。ああ、あと――酒か何かないか? 喉が渇いて仕方がねえ……って、おい、ヘルメス?」
 ヘルメスはその言葉には答えずに、黙ったまま部屋を後にした。


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