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第四章 再会


4

 里から少し離れたところ――北側に広がる森を西の方角に抜けると、海が見下ろせる岸壁に出られる。そこはオズウェルとシアが幼い頃からよく遊んでいた、二人にとっての秘密基地だった。
 眼下に、先日難破船が辿りついた浜辺が目に入る。船の残骸は、まだそこに打ち上げられたままだ。オズウェルはポルタの草で編まれた茣蓙を広げた。その上に、二人揃って腰を下ろす。
「今日は晴れているから、海がよく見えるわね」
 照り付ける太陽の日差しを、シアはとても眩しそうに見上げた。オズウェルは、遥か遠くに見える地平線を一望する。それこそ、どこまでも続く穏やかできらきらと輝く海に澄み渡る青い空と白い雲――ときどき遠くで魚が跳ねたり、鳥の群れが飛んでいたりするけれど――ここから見えるものは、これくらいしかなかった。それでも、世界の広さをたっぷりと感じさせてくれるその景色に、二人はしばらくの間見入っていた。
「……ねえ、《卵》が孵ったら……オズは、この島を出るの?」
 唐突にそう聞かれて、オズウェルははっとしたようにシアを見つめた。いつも明るく輝いているシアの眼差しが、今日は子供が生まれる直前のメルルの母親を見ていたあの時よりもずっと不安そうで、オズウェルは首を縦にも横にも振ることができなかった。
「そう……よね、オズは男の子だものね。先生みたいに、世界の色々なところを見て回りたいわよね」
「……シア」
 そのわずかな沈黙の間を、肯定と受け取ったらしい。シアは俯きながら、ぽつりと呟いた。膝を抱きこみ、その間に顎を乗せる。横顔は、真っ直ぐに空と海が混ざり合う地平線へと――彼女が知らない、広い世界へと向いていた。悲しそうな、寂しそうな、そんな素直な気持ちが伝わってくるから、余計にその言葉はやわらかな石つぶてとなって降り注ぐ。オズウェルはシアと同じように地平線の向こうを見やりながら、痛みを堪えるように眉を寄せた。
「どうして、今のままでいられないのかしら。どうして、大人にならなければいけないのかしら。ずっと一緒に、みんな、この島で……ずっと暮らしていけたらいいのに」
 オズウェルはそんな彼女を見やりながら、返すべき言葉を探した。精霊が孵ることを望む――すなわち変化を望んでいるオズウェルとは対照的に、シアは変化を恐れ、停滞を望んでいる。何も変わらず、このままであればいいと願っている。
 けれども、人が人として生きている以上、変化というものは必然だ。流れる時間は止まらないし、停滞は決して起こり得ない。たとえば卵から孵った雛鳥がいずれ大人になって自分の羽で飛び立つように、シアの精霊が《卵》から孵ったことだって、変化の一つなのだから。
 変わらないものはない。それは自分よりも彼女のほうがよく知っているはずだ。それなのに、彼女はそのことを受け入れたくないと言う。受け入れているものを、拒みたいと言う。どうしてだろう。きっとその答えはオズウェルにはわからない。
「でも、シア。ぼくたちは、いつまでも子供のままじゃいられないよ。それは……ぼくよりも、シアのほうが、わかっているんじゃないかな」
 彼女は既に精霊と共に在る。それはすなわち心身ともに成熟したという何よりの証だ。そのことはオズウェルの言葉のとおり、彼女自身、わかりきっていることなのかもしれなかった。それでも、わかりたくないことだったのかもしれなかった。
 シアの答えはない。オズウェルは少しの間を置いてから、息を吸った。オズウェルが用意できる答えなんてそれこそ先生に比べたら全然敵わないくらいのものだったけれど、それでも用意できるだけの物を用意するしかなかった。
「ぼくは……うん、この世界を見たいと思う。広い世界で、色々なことを知りたいと思う。海の向こうには、ここよりも広い大地があって、いくつもの国があるんだろう? くやしいけど、先生はすごいって思うし、正直、敵わない。それにこの島はとても小さいから、ぼくには……いずれ窮屈なものになってしまうような気がするんだ」
 それがオズウェルの正直な気持ちだった。ヘルメスの前では決して明かせない本心でもあった。オズウェルはその視線を正面に向け、空にも語りかけるように続ける。
「もちろん、この島での生活がいやだってわけじゃない。シアのことも好きだし、島のみんなだって好きだ。でも……この島に留まっていたら、立ち止まっていたら……ぼくはきっと、世界に置いていかれてしまう」
 世界は広い。
 この小さな――ちっぽけな島よりも、ずっと広い。

 いつだかシアに連れられて、先生の『お話会』に参加した時があった。
 その時、ヘルメスが一枚の『地図』を見せてくれた。
 世界樹の下で、皆の視線を一身に浴びながら、スヴェンが見つけてきてくれたという一枚の大きな紙に、ヘルメスはさらさらとペンを走らせた。
 不思議な形の輪っかのような物がそこに描かれた。パンケーキをどんなに失敗しても、こんな形にはならないだろうと思えるほどの、歪な線だった。
 ヘルメスはそれを、この世界だと言った。
 彼が描いた地図のどこにも、この島はなかった。『この島は外から隠されていて、この世界のどこにあるのか誰も知らない』というのがその理由らしい。
 あるとしたらこの辺りではないだろうかと、ヘルメスが示した場所は地図の中でもほぼ真ん中だった。
 ただの紙切れの上に、オズウェルの知らない文字でたくさんの国や街の名前が刻まれた。オズウェルにとっては単語の羅列でしかないそれらに、一つ一つ意味があるのだと知った。

 北には、鉄と鋼の帝国エーデルシュタイン。
 西には、草原の国フォンターナ。
 南には、海洋国家エレーミア。
 他にも、たくさんの国。国として統一されていない場所。未開の地。

 ――世界は、とても広かった。

 先生の頭の中には、どれだけ大きな世界が描かれているのだろう。
 果てはあるのだろうか。ないのかもしれない。
 お守り代わりにと理由をつけてヘルメスに半ば押し付けられるような形となった手書きの地図を、オズウェルはどうしても捨てることができなかった。地図の上で指先を滑らせるだけで、見たこともない広い世界がオズウェルの中にふわりと浮かび上がるようだった。
 そうして、いつしかオズウェルは自分の足でこの広い世界を歩いてみたいと、漠然と思うようになった。でも、それをヘルメスに告げたらきっと喜ぶに違いないから、それもなんだか面白くない気がして、オズウェルは外界に対する思いをそっと胸の内に鍵をかけてしまいこんでいた。
 ヘルメスはきっと、それさえもお見通しだったのだろう。だからある時、彼はこっそりとオズウェルに告げたのだ。
「オズウェルくんも、私と一緒に来るかい?」
 ヘルメスはオズウェルの《卵》が還るまでは外の世界に帰らないと宣言している。つまり、オズウェルの《卵》が還りさえすれば、彼もまた、心置きなく島を出られるということだ。
 オズウェルの《卵》が還るということは、オズウェルが島を出る資格を手に入れるということでもある。ヘルメスはそれを理解していて、オズウェルの気持ちを汲んだ上で――その上で、オズウェルに外の世界を見せようとしているのだ。
 行かないとは、行きたくないとは、言えなかった。

「……先生は、いつかオズの精霊が孵ったら、外の世界に帰ってしまうでしょう?」
 シアがぽつりと呟いた。オズウェルはそれには答えず、じっと空を見上げた。
「オズも精霊か孵ったら……この島を出てしまうかもしれない。オズはいつの間にか、私よりもずっと大きくなってしまったのよね」
 その表情に、オズウェルは一瞬どきりとする。大きくなったのはシアだって同じだと、そんな言葉を飲み込んでしまうほどに、シアの笑顔が綺麗だと、オズウェルは思った。
「……シア、ぼくたちは何を残せると思う?」
 オズウェルは両手を空に掲げ、問いかけた。空気を、何かを掴み取るようにぎゅっと握り締めたその手を、胸の内に抱くように重ねる。
「……え?」
「世界に調和をもたらすために。世界を護るために。そうやって、精霊と一緒に戦うことがぼくたちの役目だとしたら、そのせいで、命を落としてしまったら……ぼくたちは、果たして何のために生まれてきたんだろう。何のために、生きているんだろう。世界を護ることだけが、そのために戦うことだけが……ぼくたちに与えられた役目なのかな」
「……オズ……」
「ぼくの両親はもういない。でも、ぼくは両親のことを……父さんと母さんのことを、何も知らない。いや、知っているのは名前だけだ。顔も、声も、何一つぼくの記憶の中には残っていない。ティナさんはだんだん父さんに似てきたって言ったけど、ぼくにはそれがわからないんだ」
 オズウェルは両親の顔を知らない。よく似た面差しだったと後から聞いても、実際に見たことがなければ想像のしようもない。いつだったか、先生が見せてくれた『写真』――人の姿や景色をそのまま残せるようなすごい道具は、この島にはない。
 どんなに強く思い描いても、それは正しい答えにはほど遠いのだ。そもそも、正しい答えに辿りつくことさえ、不可能なのだ。名前だっていつか忘れてしまうかもしれない。顔を思い描くことができなければ、思い出に結びつけることができなければ、たとえ誰かの名前であろうとも、ただの単語や文字の羅列に過ぎない。
「……オズ、先生が言ってたわよね。外の世界には、お墓というものがあるって。死んでしまった人の名前を刻んだ石や十字架を立てて、その下に……亡くなってしまった人の身体を、埋める場所があるって」
 ヘルメスは、彼がかつて暮らしていた外の世界のことを、色々と彼らに語ってくれた。ここではない、外の世界の文化や歴史。時に争いの火種にもなりうる、遥か昔から脈々と受け継がれてきた記憶や想い。夢物語にも似たそれは、しかし、そのどれもが紛れもない真実であり、事実だった。
 住む場所が違えば、当然のように文化も違う。人の死に対するとらえかたも、それぞれだ。
 ヘルメスが不思議がっていたのは、この島に『墓』と呼べる物がないことだった。亡骸を埋め、名前を刻み、花を手向ける――そのような場所がどこにもないということを、ヘルメスはとても不思議だと言っていた。
「わたし、おばあさまに聞いてみたの。どうしてここには、先生が言うようなお墓がないのって。ほら、お墓があれば、忘れてしまわなくて済むでしょう?」
「……うん」
 確かにシアの言うことももっともだと、オズウェルは思いながら頷いた。彼女の柔らかな言葉は続く。
「でも、わたしたちは、忘れてしまわなければならないんですって。魂は巡るから。死んでしまったら、新しい命として生まれ変わるから。生まれ変わるためには、それまでの自分を忘れてしまわなければならないから。思い出してしまわないように、ちゃんと生まれ変われるように……その人の魂をとどめておくための場所は、作れないんですって。だから、本当は、名前も忘れてしまわなければならないんですって」
 シアの言葉は、まるで歌のように響いた。彼女が、おそらくは老ベルメールから聞いたそのままに告げる言葉を、すぐに理解できないほど、オズウェルも子供ではなかった。
「……じゃあ、ぼくも、父さんや母さんを忘れなければならない? たとえば老ベルメールや、ティナさんやジェイドさんや……シアが死んでしまったとしても、ぼくは忘れなければならないの? ……そんなのは、嫌だな」
 シアの小さな手が、オズウェルのそれをそっと握り締める。ぬくもりが重なって、ひとつになる。
「わたしは……忘れない。忘れることなんかできない。おばあさまに怒られてしまうかもしれないけれど、おばあさまのことも、パパやママのことも……オズのことだって、忘れることなんかできない」
「シア……」
「生まれたことは、生きていることは、きっと、どんな意味があるとか、そんな難しいことじゃなくて――だって、わたしはオズにこの世界で出会うことができて、本当によかったって思っているもの。オズや、パパやママや、みんなや、先生……誰かがいなかったら、きっと今のわたしもいなかったんだもの……オズがいなかったら、わたしがオズのこと、大好きだって思うことも、なかったんだもの」
 きっと彼女の言う通り、難しく考える必要はないことなのだろう。生まれたことに意味を見出すよりも、必要なのは、何をするかということなのかもしれない。
 精霊を《卵》から孵し、共に世界を廻る――そんなささやかな夢を現実にするために何をすればいいのかとか、そういうことを考えれば、それでいいのだろう。
 オズウェルは空いた片手でそっとシアの体を抱き寄せた。シアがいつもそうしてくれるように、彼女の細い体を抱きしめた。
「オズ……?」
「シアがいなかったら、きっと、ぼくは……」
 そこから先は言葉にならなくて、ただ背中に回された彼女の腕の心地良さに身を委ねるだけで精一杯だった。
 ――けれど。青い海の向こうに、魚のそれとは違う黒い影が泳いでいるように見えて、オズウェルは目を凝らした。
「……ねえ、シア。あれは……船だよね?」
 この島へと近づいてくるいくつもの影を、二人は隠れて見下ろした。


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