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第四章 再会


5

 世界樹の元に集まった《時渡りの民》たちは、宴の準備で大忙しだった。間もなくできあがるだろう料理の匂いが、それぞれの家から風に乗ってここまでやってくる。テーブルの準備はまだ整っていないというのに、随分せっかちだと思いながら、ジェイドは――ティナの手料理に一人心を馳せていた。
「おんや、若者三人はいらっしゃらないの?」
 日にさぼしておいたテーブルクロスを抱えながらやってきたスヴェンが、そんなジェイドをからかうように呟く。ジェイドはのんびりとスヴェンのほうを振り返り、笑いながら頷いた。
「逃げるのが得意なのは、悪いことじゃないさ」
「ジェイドパパはちょっと甘すぎるんじゃないかなあ」
 自他共に認める『親ばか』なのだからしかたがない。ジェイドは飄々と肩を竦める。
「客人を祝うのに、難しい顔は相応しくないからね。若者にも若者の、悩みがあるということ」
「そしてジェイドパパはそれに心当たりがある……と。そういうこと?」
「さて、どうだろうね。子供なら、誰しも一度は通る道だろうからね」
 スヴェンの手により広げられる大きな布が、太陽の匂いを孕んでふわりと揺れる。すぐに美味しい料理の匂いで満たされてしまうから、太陽を感じられるのは今だけの特権だ。
 そんな彼らの前に、予期せぬ来客が現れたのはその時だった。心地良い喧騒に混ざる動揺を、聞き逃せるほど鈍感な者はいなかった。
「……どちら様?」
 浜辺のある方角から世界樹の下へ。道なき道を辿るように歩いてくる男たちの姿があった。その数、およそ二十人弱。揃いの軽鎧に身を包み、腰に剣を帯びている。目元まで覆う兜のせいで表情が窺えず、さらに揃えた足音が嫌に耳につく。一定の間隔をもって散らばって行く彼らは、瞬く間にジェイドやスヴェンやその場にいる里の男たちを包囲した。
 ヘルメスの来訪を祝うためにやってきた客人でないことだけは、誰の目に見ても明らかだった。
「すいません、他にお客さんがいらっしゃるなんて聞いてないんですが」
 前に出ようとしたジェイドを手で制し、スヴェンがそう声をかけるが、男たちは無言だ。沈黙が重く圧し掛かり、立ち塞がる。
「――どうしたんだい、皆」
 凍りついた場の空気を溶かそうとでもするかのように、ヘルメスが静かに家の外に姿を現す。男たちの視線が一斉に集中したようだった。
「先生」
 振り返ったスヴェンの声に頷いて、ヘルメスは男たちを一瞥した。すぐに状況を察したらしいその瞳に、常よりも険しく鋭い光が満ちた。
「……エーデルシュタインの、兵が、なぜここに……?」
 ヘルメスはどんな偶然よりもこの場に相応しい、ある種の確信を持ちながら、しかし、目の前の光景を信じられないといったような口調で呟いた。
 何故ならここは《時渡りの民》の住む島だ。精霊の導きがなければ辿りつくことさえできない場所だ。たまたま着いたなどという偶然が、あってはならないような――
「あの人たち、先生の知り合い?」
 深呼吸を一つ、まるでオズウェルの居場所でも尋ねるようなのんきな口調で、スヴェンが囁いた。
「少なくとも、親しい友人ではないよ。……個人的には、まったくの赤の他人だ」
 ヘルメスが困ったように笑いながらそう答えた後のスヴェンの行動は素早かった。真っすぐに眼前へと伸ばした手の先に、彼の精霊であるラスフィルが飛び乗ったのだ。それに続いた里の男たちの判断力も、ヘルメスに言わせれば見事なものだった。各々の精霊と共に――いつでも攻撃を仕掛けることができる状態で――来訪者たちに注意を向けていた。
 彼らは戦士なのだと、ヘルメスは一人、場違いな感心をしていた。
「抵抗はしないほうがいい。可愛い弟を手にかけたくはないから」
 ややあって響いたその声と言葉と、それらの持ち主の存在は、《時渡りの民》が持つ全ての手札を封じ込めるには、十分すぎるものだった。
「……誰が、可愛い弟だって?」
 一瞬にして彼らの間に緊張と目に見えぬ束縛をもたらした人物が、彼が弟と読んだ少年を背負いながら、兵士たちの間を縫って彼らと世界樹の前に姿を見せる。
「カーディル……?」
 誰がその名を呟いたのかはわからなかった。だが、カーディルは、呼ばれた名に薄紙のような力ない笑みを浮かべて小さく頷いた。

「……カーディル、本当に久しぶりだ。でも、ずいぶんと物騒な土産じゃないか?」
 そう言って一歩踏み出したスヴェンの半ば茶化すような――性質の悪い冗談かちょっとした悪戯かであればいいと願ってさえいるような声に、カーディルは力なく笑んだままだった。彼の後ろに散らばっている兵士たちの剣の刃が、ティナやシアが本気で怒った時のマールやエレインの眼差しより鋭く冷たく感じられて、スヴェンはそれ以上の――何よりも言うべき言葉を言い出せなかった。
「こうするしかなかったんだ。本当にすまないと思っているよ」
 地面にしゃがみ込み、ティルトの身体を地面に横たえて、カーディルは呟いた。同じ血を分けて生まれた弟を真っ直ぐに見下ろすその目は、かつて彼の同胞であった者たちの姿を映そうとしてはいなかった。
 カーディルは《時渡りの民》で、スヴェンや彼の妻タチアナにとっては『同じ星の巡りの下に生まれた』幼なじみでもある。その帰りを喜ぶべきなのに、誰も彼を迎え入れることのできる言葉を紡げなかった。
 彼は既に《時渡りの民》たちにとっての同胞ではないと、誰もが悟っていたのかもしれない。
「――へえ、あれが世界樹なのかい」
 まだ見ぬおもちゃに心を踊らせている、子供のような声色。カーディルの背後から、その背中を追うように歩いてきた――一見して高貴なそれとわかる風貌の、少年のような青年。
「ハロルド陛下……?」
 ヘルメスの声が、絶望的な重さを伴ってこぼれ落ちる。ハロルドは笑みを湛えたまま、ヘルメスの側まで近づき、両腕を広げるようにして世界樹に見入っていた。
「久しいね、ヘルメス博士。こんなところで会えるとは思っていなかったが、息災のようで何よりだ。これが君が探していたという世界樹か。実に見事だ。この樹が世界を支えているなどとは、とても信じられないよ。……さて、ヘルメス博士――万物を統べると言われている至高の精霊――光の精霊は、見つかったかい?」
 ヘルメスは口を開こうとはしなかった。途端に、ハロルドの眉が面白くなさそうに釣りあがる。
「君の口はいつから僕に答える声をなくしてしまったのかな」
 癇癪を起こしたような手に胸倉を掴まれるが、それでもその衝撃でずれた眼鏡を持ち上げただけで、声らしい声は発しなかった。ただ、歯を食いしばったまま、皇帝であるその男を始めとした侵入者たちを、力一杯睨みつける。ハロルドはすぐに興味をなくしたようで、ヘルメスの身体を乱暴に突き放した。
「まあいい、隠したところでどうせすぐに見つかるだろう。伝説の世界樹が実在し、こうして精霊までもが山のようにいるとはね……今からここは、我がエーデルシュタイン帝国領だよ!」
「――いけません、陛下! ここは――この場所は、誰であろうと、たとえあなたであろうとも侵すことはできない!」
 怒鳴り声を上げたヘルメスを一瞥し、皇帝――ハロルド・H・エーデルシュタインは軽く鼻で笑った。
「いつから僕に意見を言えるほどに偉くなったんだい、君は」
 カーディルの傍らで、ティルトが動いた。薄っすらと開かれた視界に映る人が幻でないと確かめて、複雑な感情を交えた溜め息が漏れる。
「気づいたかい、ティルト」
「やっぱり、兄貴だったのか」
 それでも間違いがないかどうか確かめるような口調。カーディルは薄く貼り付けたような笑みを浮かべたまま、頷いた。
「危害を加えるつもりはなかったと、言っても信じてもらえるとは思っていないけれど。素直に来てくれるとも思っていなかったから」
「兄貴、変わったな」
 ティルトはそんな兄の姿を見ようとしなかった。見たくないという思いが、無意識の内に顔を背けさせていた。
「変わらないものなどないよ、ティルト」
 カーディルはそう、言い捨てるように呟くと、重い腰を上げた。かつての同胞であった《時渡りの民》たちを見渡しながら、淡々と声を響かせる。
「精霊を、こちらに。テーブルの下に隠しても駄目。嫌だと言うなら俺は可愛い弟を手にかけなければならなくなる」
「兄貴……!」
「知っているよ。大人は子供を守らなければならないから。皆がティルトを見殺しにできないことも。スヴェン、ご婦人がたと可愛い弟妹は家の中にいるの?」
 ティルトは噛み殺せない苦笑いを浮かべながら、力なく首を横に振る。
「……呼んでこいって言うなら他を当たれよ」
「これだけの騒ぎになっておれば、呼ばれなくとも何事かとは思うがのう」
 小さな体を引きずりながら、《時渡りの民》たちの長である老ベルメールが姿を見せる。皺だらけなその体よりもずっと大きな、圧倒的な存在感が一時的に場を支配した。
「げっ、ばっちゃん!」
「……老ベルメール」
「もう少し年寄りを敬うことじゃな、スヴェン」
「や、だってそんなこと言ってる場合じゃ」
「タチアナが不安がっとる。側にいておやり」
 ベルメールが目で示した先に、悲しげに表情を歪ませてこちらを見ているタチアナの姿がある。
「――タチアナ」
 スヴェンは我を忘れたかのように身を翻して駆けて行き、抱擁の代わりに両手を握り締め、それから彼女の身体を支えるように腕を回した。こんな時ばかり機転がきく我が身が恨めしいと、そんなことを思いながら、宴のために用意していた椅子に彼女を座らせる。
「お前たち……汚れた足で母なる大地を踏み荒らすでない」
 ざわついた空気を叩き切るような渋みのある声が、世界樹の元に響いた。誰もが見つめたその先に、《時渡りの民》たちの長である老ベルメールの姿があった。
「……ほう……」
 侵入者――もしくは侵略者と言ってもいいような男たちをその紅色かかった黒曜石の瞳でざっと一瞥してから、ベルメールは心なしか皮肉めいた笑みを口の端に宿した。緩く溜め息が漏れる。
「して……理由を聞こうではないか。何ゆえに、このような若造どもを連れて舞い戻ってきおったのだ? ――カーディル・ラティ・マルディスよ」
 ヘルメスの中にわだかまっていた疑問をそのまま代弁したような彼女の言葉は、一瞬にしてその場の空気を凍らせた。それとは逆に、ベルメールの瞳には有無を言わさぬ怒りのような光がみなぎっている。


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