終章 光を告ぐ者島を渡る風が運んだ泣き声は、さながら、藍色の闇を振り払う白い光のようだった。 夜明けと共に産声を上げたタチアナの子供はとても元気な女の子で、オズウェルの精霊ノルと一日違いで産まれたことにちなんで、『ノルン』と名づけられた。 かつては自分もこうだったのだと言われても到底実感などできなかったのだが、産まれたばかりの子供は、オズウェルが想像していたよりもずっと小さかった。産まれたばかりなのに、ずっと生きている老ベルメールのようにしわくちゃで気難しそうな顔をしていて――それでいて、確かに生きている、小さな命だった。 そんな小さな命を抱く ハロルドとカーディル、そしてエーデルシュタインの兵たちが島を後にしたのは、この長い夜が明けてからのことだった。その際、カーディルはベルメールより、自らの片割れである精霊、ラティを島に置いていくように命じられた。 それは罪を犯した《時渡りの民》に与えられる、もっとも重い罰だった。精霊を置いていくということは、すなわち、生きている間には二度とこの島に帰ってくることができなくなるということである。 けれども、それで構わないのだと、彼は穏やかに笑っていた。 それから、数日。 「……ずいぶんばっさりと切ってしまったんですね」 優しく梢を揺らす大樹の根元に、オズウェルとヘルメスの姿があった。オズウェルは頭の上に小さな金色の竜を載せて、そしてヘルメスは長かった髪をばっさりと切り落としていた。 「うん、もう役目は終ったからね。どうだい、ますます男前になったと思わないかな?」 少し気取った素振りで首を傾げるヘルメスに、オズウェルは曖昧に頷いた。 「逆に、幼く見えるような気も……いえ、役目って?」 「若いと言ってもらえたほうが嬉しいかな。うん、願掛けだったんだよ。オズウェルくんの《卵》が、早く孵りますように……っていう、ね」 そんなところだろうと予想はついたが、面と向かって言われると嬉しいやら恥ずかしいやら、複雑な気分になる。だが、以前よりもずっと、ヘルメスの『好意』を素直に受け止められるようになっていると、オズウェルは感じていた。成長したという証だろうと、思っておくことにする。 「ぼくの《卵》も孵りました。……先生は、これから、どうするつもりなんですか?」 オズウェルとノル、それぞれの若葉色の瞳が真っ直ぐにヘルメスへと向けられる。その輝きの色があまりにも瓜二つに見えて、ヘルメスは驚いたように大きく目を瞬かせた。それも少しの間。吐息にかすかな笑みを混ぜて、ゆっくりと口を開く。 「……そうだね、そろそろ、この島ともお別れかな。これ以上長く留まっていたら、離れ難くなってしまいそうだから――時期としても、悪くないだろうと思うよ」 「そう、ですか。……残念でしたね、光の精霊が見つからなくて」 オズウェルはふいと目を逸らしてそっぽを向いた。それでもヘルメスがやわらかく息をつくのが目に見えたような気がした。 「寂しいかい? オズウェルくん」 「そうですね、寂しいかそうでないかと聞かれたら、寂しいですよ。でも、ぼくよりもシアやティナさんや……みんなのほうがきっと寂しいって言うと思います」 「そうかな、……ねえ、オズウェルくん。……精霊とは、なんだと思う?」 唐突にそんな問いを投げかけられて、オズウェルはあっけに取られたような顔をヘルメスへと向けた。開きかけた口からすぐに言葉が出てこずに、少しの間があって、 「万物を司る……そんな答えが欲しいわけじゃないですよね、先生は。……ノルは、ぼくの心です」 その答えに、ヘルメスはゆっくりと目を細めると、とても満足そうに頷いた。 「そう、精霊とは、……心なのだそうだよ。老ベルメールが仰っていたのだけれどね。世界を巡るたくさんの――たとえば、亡くなった人の想いや、誰かが誰かに託した言葉や、願いや、遺された――そんなたくさんの想いの欠片が集まって、一つになって、《卵》として生まれてくるんじゃないか、って」 「……本当にそうかどうかはわからないってことですか、それ」 耳聡く聞きつけたらしいオズウェルの言葉に、ヘルメスは思わず笑ってしまった。 「そういうことになるね。でも、私はそうじゃないかなと、納得してしまった。オズウェルくんのお父上やお母上の心も、いつか、巡り巡って精霊として――あるいは、オズウェルくんの子供として、生まれてくることがあるかもしれない」 そんな途方もない話――言いかけて、オズウェルは口をつぐんだ。ヘルメスが言うと、それは本当に、本当のことになりそうな気がしてならなかった。そんなオズウェルの様子に気づいたのかどうか、先程から変わらぬ穏やかな調子でヘルメスの言葉は続く。 「……ティナさんにうかがったよ。オズウェルくん、きみの定位置は……丘かこの樹の側だって。寂しい時によく家を抜け出しては、この樹の下でずっと座っていたって」 おしゃべり好きなティナを恨めしく思ったところで何が始まるわけでもないが、彼には知られたくなかったなとオズウェルは今更ながらに思った。いっそ子供っぽいと笑い飛ばされたほうが、幾分か気が楽だったかもしれないとさえ感じてしまう。笑い飛ばしてくれるどころか、ヘルメスという人は同意さえ示してくれるような人であるから、尚更だった。 「……昔の話です」 「きみはこの樹に……無意識にかもしれないけれど、亡きご両親の姿を重ねていたのかもしれないね。世界樹はすべての父であり、母だから。すべてが生まれ、還る場所だから」 オズウェルは気恥ずかしそうに世界樹を見上げたまま、そうとも違うとも答えなかった。そんな少年の心の内を代弁するかのように、ノルがくわぁと一声鳴いた。 「それに、光の精霊なんて、これから見つければいいだけの話さ。そうだろう? ここでずっと暮らすのも悪くないと思ったけれど、やっぱり私には広い世界を駆け回って神秘と伝説を追い求めるほうが、性に合っているようだから」 オズウェルは考える。彼のような、誰かに何かを伝えてゆく、そんな大人になりたいと言ったら、はたしてヘルメスはどんな顔をするだろう。とんでもないと笑うだろうか、それとも、嬉しいと笑ってくれるだろうか。どちらでも笑ってくれるのなら、言うのも悪くないかもしれない。 だが、今はまだ言わないでおこうと、オズウェルはこっそり胸中で呟いて笑った。 代わりに、伝えようと思っていたことを、伝えようと思った。 「――先生」 「うん? なんだい、オズウェルくん」 「……ぼくは」 ――この島を出て、広い世界に。 ずっと昔。この世界が生まれた頃には、世界に生きる誰もが精霊と共に在った。 人々は精霊の力を用いてこの世界を築き上げ、揺るぎない繁栄をもたらした。 だが、人の欲望は尽きることを知らなかった。揺るぎない繁栄の上に、さらなる繁栄をもたらすために――自分たちのためだけに、人は、精霊の力を使おうとした。 そんな人々の心に、精霊の声は次第に届かなくなっていった。 精霊の声が聴こえないと人々が気づいた時には既に、世界も、人々も、人自身の手によって大きく変わってしまっていた。 そうして、自分たちのことばかりを考えていた人間たちは、いつしか、精霊の声を聞くことを、精霊の声が聞こえるのだということを忘れてしまった。 それでも、全ての人間が、精霊の声に対して耳を塞いでしまったわけではなかった。ごく一部の精霊の声を聴き続けた人々は、互いに寄り添って、精霊の導くままに小さな島に移り住んだ。 そこは、世界の中心だった。 《時渡りの民》は、精霊の声を忘れなかった人々の末裔なのだそうだ。 元は同じ人間であったはずなのに、いつから、道は分かれてしまったのだろう。 大半の人間が精霊の声を聞くことを忘れてしまったこの世界そのものに、絶望している者がいた。 変化を望まず、変容を恐れ、今ある生活、平穏――それを護れればいいと思う者がいた。護るためには手段を選ばない者もいた。 今ではなく、未来へと手を伸ばし、精霊と共に外の世界を知りたいと願う者がいた。 巡り巡る世界の中心から、始まる物語がある。 旅立つ者、見送る者。すべての者に等しく黎明の光は降り注ぎ、そして、遥かな大地をどこまでも優しく照らしていた。 Fin.
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