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第四章 再会


8

「まさか……こんな風にまた会うなんて思ってなかったな」
 場を満たす沈黙を破るように、唐突にスヴェンが口を開いた。
「ああ、俺も思ってなかったよ、スヴェン」
「……っ、なら、どうして!」
 望まぬ再会を受け入れてまで、歓迎されないことを承知の上で、なぜ彼はこの島の土を踏みしめなければならなかったのだろう。生まれ育った場所を血で汚すかもしれないとわかっていたはずなのに、なぜ彼は招かれざる来訪者をこの島へ導かなければならなかったのだろう――そんな小さな疑問の種がスヴェンの中にいくつも浮かんだが、カーディルの眼差しにすべて花になる前に摘み取られてしまっていた。
「お前ならわかってくれるんじゃないかなと、思うよ……守らなければならない人が、いるんだ。――おめでとう、スヴェン、タチアナ。遅くなったけれど」
「……今言われても、嬉しくないよ」
 カーディルの言葉に込められた意志は揺るぎなく、まるで彼が今ここにいて、生きていることの理由そのもののようだった。同じ血をわけた兄弟を傷つけてでも、生まれた場所を裏切ってでも、カーディルが守らなければならないと言った人に、スヴェンは気づいてしまったから――だからそれ以上の言葉をぶつけることができなくなってしまう。皮肉にも、それを痛いほどに感じさせてくれる存在が彼の傍らにあった。
 スヴェンは悲しそうに震えているタチアナの肩をそっと抱き寄せ、カーディルの言葉を噛み締める。あらゆるものを敵に回したとしても、たとえ己を殺すことになろうとも、守らなければならない愛しい人。まだ見ぬ小さな子。
 あの時もそうだった。スヴェンは小さな『弟』の顔を思い出しながら、己の非力さを胸中で嘆いた。
 あの時。十五年前。もう少ししたら十六年前になってしまうかと、未完成の宴の席を見つめながら考える。『外の人間』の腕の中で、両親を呼んで泣いていた子。彼を取り戻すために立ち上がった二人の親は、けれど、取り戻した我が子を再び抱くことはなかった。
 オズワルドとシャンテ。祝福されて結ばれた二人。二人が大好きだったから、なぜ自らを犠牲にしてまで小さな子を取り戻したのかと何度も思った。スヴェンは、今、その答えをようやく手に入れようとしていた。
「無駄話はそれくらいにしておいてもらえないかな」
 不意に割り込むハロルドの声に、スヴェンは目を逸らした。
「……話を聞けよ。まさか精霊だけ持ってはいさようならなんて真似が、本気でできると思ってたのか……?」
「……なんだって?」
 堪えきれない笑みを堪えることなく溢れさせて呟いたティルトに、ハロルドの表情から笑みという笑みが一瞬で消える。
「――お主たちは知らんかったようじゃが……精霊と我らは同一の存在でな。我らの命は即ち、精霊の命でもあるんじゃよ」
 ベルメールは臆することなく笑っていた。きっと彼女にとっては若造の一人や二人、取るに足らないということなのだろう。
 同時に、カーディルの表情もまた――拭えない翳りを帯びてはいるものの、どこか満足げなものに変わっていたような気がしたのを、ティルトもスヴェンも気づいていた。
「精霊を連れて島を離れたければさっさと行くがよい。ただし、お主たちが島を離れれば、すぐにでも我らは命を絶つぞ。その瞬間に、精霊もすべて消え去るじゃろう」
 ハロルドの拳が震えている。それを見やりながら、ベルメールはなおも続ける。
「主らが、それでも構わぬと言うならそうするがよい。我らとて、世界樹の元で生まれたという誇りがある。我らの力、そう安く見られたのではたまらぬよ。とは言え……お主ら如きに我らの命はやれんがのう」
「……カーディル、なぜこのことを言わなかった?」
 カーディルは僅かに浮かべていた笑みをかき消して、緩く目を伏せてから答えた。一切の感情のない、淡々とした声で。
「申し上げたはずです。彼らを手に入れるのは容易ではないと。それこそ、命をかけなければならないと……それでも構わないのなら、ご案内しますと」
 かけるのは、賭けるのは他でもない精霊と《時渡りの民》の命であるということに、ハロルドはようやく気づいたようだった。ずっと欲しいと願っていた玩具を前にして、それが手に入らないなどと考えたくもなかった。手に何かを持っていたらためらいなく地面に叩き付けそうな勢いを、ハロルドはそのまま声に変えて叫んだ。
「精霊が手に入らないのならばこんな島に用はない。すべて――そうだな、どうせなら精霊の力とやらを試してみようじゃないか! すべて焼き尽くしてしまえ!」
「たわけたことを! この世界そのものを壊すつもりか! わかっておるのか!?」
「わかっているさ、そんなものがただのおとぎ話だということくらいはな。ふん、たかだかこんな一本の木に、世界が支えられるわけがないだろう」
「母様――!」
 ベルメールの瞳に劣化の如き怒りが宿った。立ち上がりかけた彼女の身体を、ティナが後ろから制する。感情を鎮めるように深呼吸を繰り返し――そうして、ベルメールは口を開いた。
「かつて精霊の声を聞くことを拒んだ主らが――こうして世界樹をも破壊しようとするとは、笑わせてくれるわ……!」
 ――世界樹の梢が警告を発するようにざわりと揺れる。
 その意味を探るより早く、現れた人影をその場にいた誰もがとらえていた。
「オズ?」
 その時、スヴェンは我が目を疑った。彼だけでなく、ティルトも、ティナも、誰よりも彼らの長たる、老ベルメールまでも。
「……オズウェル」
 ゆっくりと彼らの前に姿を見せたオズウェルに、ティルトは息を飲んだ。数日前――言ってしまえば『ついさっき』とは何かが決定的に違うと、誰もが瞬時に悟った。
「お前……」
 続くはずだった言葉を、ティルトは続けることができなかった。言わずとも、聞かずとも、ティルトにはわかっていた。ティルトだけではない。その場にいたすべての《時渡りの民》が、オズウェルの身に起こった明らかな変化を、感じ取っていた。
「……ノル、くん……?」
 ティナの涙交じりの声が、かすかに響く。
「クアアッ」
 オズウェルの肩の上で、たった今外の世界を知ったばかりの金色の竜が、小さな声で啼いた。
「まだ隠れている奴がいたのか」
 そう声を発したハロルドを、オズウェルは一瞥した。船から降りてきた中で一番偉そうに見えた男だと、オズウェルは思った。
「オズウェル! とにかくあの変な入れ物を何とかしろ!」
 ティルトの声に視線を巡らせると、すぐにそれを見つけることができた。ヘルメスが言っていた『檻』に違いない。皆の精霊が閉じ込められている、閉じ込めるための道具。
 けれど、その檻を開ける役目を担うのはオズウェルではない。
 ヘルメスの言葉を思い出す。誰かが鍵を持っているはずだから、まずはそれを探さなければ始まらないのだ。
「――ノル、あいつらをやっつけよう」
 オズウェルはそう、小さな精霊に呼びかけた。オズウェルの視線はそのまま、居並ぶ兵士たちへと向けられる。
 ノルが歌うように透明な声を上げる。世界樹の梢を揺らした風が、そのまま刃のような鋭さを持って兵士たちへと襲い掛かった。
「うわあああああああっ!」
 一瞬にして形勢は逆転した。吹き抜けた風の刃に兵士たちはあっと言う間に方々に散り、あるいは身体の一部を裂かれてその場に倒れた。ただ一人、頬を肩を裂かれ僅かに血を滲ませながらその場に佇んだままのカーディルと目が合った。
「オズウェル、――ノル」
「……カーディル兄さん」
 かつて島にいた頃の彼とはどこか違うと、オズウェルは思った。
「――力に振り回されるな。怒りに身を任せてはいけない。呑み込まれてしまったら、すべてを壊してしまうよ」
 だが、彼の声も言葉も、オズウェルの記憶に残るそのままだった。
「お前たち、何をやっているんだ! 相手はたかが子供一人じゃないか!」
 逃げ出した兵士たちにハロルドが怒鳴り散らす。兵士たちもその声で我に返ったらしい。各々の剣を抜き、彼らは一斉にオズウェルへと踊りかかってきた。太陽の光に白刃が煌く。
「ノル!」
 オズウェルは何の躊躇いもなく精霊の名を呼んだ。応えるようにノルの啼き声が響き、風が舞い上がる。
「鍵を持っているのは、誰だ!?」
 オズウェルのその声と共に、吹き飛ばされる兵士たち。悲鳴を上げながら逃げ回る彼らを、オズウェルは口の端に笑みを湛えながら見つめていた。
「鍵はここにあるよ。オズウェル」
 カーディルの穏やかな声が再び響いた。見ると首飾りのような不思議な形をした――『鍵』が、カーディルの手に握られていた。
「君たちの勝ちだ」
 言うなり、カーディルは持っていた鍵を遠くへ放り投げた。カーディルのその行動にオズウェルは目を見張ったが、すぐに意図を理解できるほどには冷静だった。
 カーディルが鍵を投げたその先に、ヘルメスの姿があったからだ。ヘルメスは投げられた鍵を掴み取り、それを更に、檻の近くまで来ていたシアへと投げて渡した。ノルと同じように懸命に戦っているエレインの姿があった。
 シアは受け取った鍵を檻の鍵穴に差し込んで回した。扉が開くや否や、閉じ込められていた精霊たちが一斉に外へ転がり出て、それぞれの主の元へと飛んで行った。その様子を遠目に見やりながら、オズウェルは、腰を抜かしたまま地面に座り込んでいるハロルドへと向き直った。
 湧き上がる気持ちが抑えきれない。
「お前さえ、来なければ」
 皆が危険な目に遭うこともなかったのに。そんなことを思えば思うほど、オズウェルの心の中に満ちていくのは――今までにオズウェルが感じたこともない、強く熱い感情だった。
「ひ……っ!」
 オズウェルの怒りに満ちた瞳に射竦められ、ハロルドは立ち上がって逃げることさえできなくなっていた。一歩ずつ近づいてくる少年と精霊の姿が、ハロルドにはさながら、死神の遣いのように映った。
「オズウェルくん、そこまでだよ」
 肩に置かれる大きな手に、オズウェルは、高ぶっていた怒りがわずかに静まるのを感じた。しかし、彼らの営みを破壊しにきた侵略者たちを前にして、そう簡単に止まることなどできるはずもない。すぐ後ろにいるであろうヘルメスにオズウェルは振り返ることなく、真っ直ぐにハロルドを見据えたまま答えた。
「先生、止めないでください。……あいつは敵だ。世界樹やみんなをあんなに傷つけた。このままにしておくことなんてできません」
 オズウェルの、殺気がこもってすらいるかもしれない眼差しに、ヘルメスは目を疑った。同時に、彼が手にした力の強大さを思い知る。止めなければならない。オズウェルの肩に置いた手に、強く力を込める。言い聞かせるように目線を近くして、
「オズウェルくん。きみが手に入れた力はとても強い。持て余してしまうほどに。だからこそ、使いかたを誤ってはいけない。……今きみがこれ以上彼らにその力を振るってしまったら、きみも、彼らと同じになってしまうよ。……ノルくんに、人を殺させたくはないだろう?」
 ヘルメスの言葉にこめられた力と、頭の上に舞い降りた小さな竜の存在、その命の重みを感じて、オズウェルはすぐに言葉をなくした。あちらこちらに倒れている多くの兵士たちを見やる。そしてハロルドの、恐怖と絶望で塗り固められたその顔を。
 全て、ノルが――自分がやったのだ。
 ヘルメスはオズウェルの肩に置いた手を離し、ハロルドの元へと歩み寄った。片膝をつき、大人が子供にそうするようにそっと手を差し伸べ、穏やかな声で告げる。
「陛下、あなたが欲した力がこれです。命をこうも簡単に奪うことができる。あなたは……殺戮者になるおつもりで?」
 ハロルドの表情は、いたずらがばれてひどく叱られ、今にも泣き出しそうな子供そのものだった。人の手に余るような強大な力を目の当たりにし、あるいはその力を、鋭く研がれたナイフのように喉元に突きつけられて、許しを請う声すら削ぎ落とされてしまったような、そんな、恐怖に歪んだ顔をしていた。
 オズウェルは最初に見た時よりもうんと小さくなったようなハロルドを一瞥して、振り上げた拳を力なく落とした。
 その時。
「――タチアナ!」
 悲鳴にも似た、スヴェンの叫び声が届いた。両手で抱えきれないほどに膨らんだ腹を力なく押さえながら、苦しそうに呼吸を繰り返しているタチアナの姿があった。
「これ、何をぼんやりしとる。湯を沸かすんじゃ!」
 老ベルメールの叱咤の声が響く。男たちがタチアナをしっかりと抱えて家の中に運び、女たちがその後を追う。
 止める者は――止められる者は、誰もいなかった。今から始まる神聖な儀式がどんなものであるのかを、誰もが知っているようだった。
「……陛下、お逃げになられるのなら、今のうちですよ。誰もあなたを追う者はいないでしょう」
 ヘルメスは真顔でそんな冗談を口にしてから、ふと息を緩めるように笑った。ハロルドは震えながら、呆然と運ばれていくタチアナを見ていた。
「あれは、なんだ、どうしたんだ」
 ややあって、ハロルドは何かとてつもなく恐ろしいものを見たかのような声で、呟いた。その様子に、ヘルメスは場違いとは思いながらも、笑ってしまった。
「……新しい、命が。この世界で産声を上げようとしているんですよ、陛下」
 日は沈みかけ、真っ赤な夕焼けが空を覆い、長い夜が始まろうとしていた。
 先程までの一連の諍いを、すべてどこかに追いやってしまうほどの力を持つ――新たな命の始まりの瞬間は、それほどまでに気高く尊いものなのかもしれなかった。


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