序 章 遠 き 日 の 約 束その日、世界は鮮やかな闇で満たされていた。 呼吸さえ憚られるようなしんと静まり返った森の中を、フィレアは闇に慣らした己の目と、探るように伸ばした両腕の感覚だけを頼りに歩いていた。 さわさわと梢を揺らす風の音も、今は響かない。どんなに慣らしても、目をつぶっているのと同じような闇の中では、まともに歩くこともままならない。 ましてや、人の手でととのえられているわけでもない道ならなおさらだ。 人は、闇を照らす術を知っている。幼いフィレアでさえ、そのことを知っている。 ただ一言でよかった。光を点すための言葉を紡げば、それだけで彼女の視界は開けるはずだったし、それは彼女にとっては呼吸と同じくらい容易いことだ。 だが、何度つまずいても転んでも、彼女は決してそれをしなかった。 そうしてしまったら、彼女が求めるものは手に入らないからだ。 《竜が眠る大地》――フィルタリアと呼ばれるこの世界には、年に一日だけ、まったく光の差さない――いわゆる、日食の日がある。 中天に浮かび、円盤状の世界に光をもたらす《天球》が、魔力を集めるために完全に活動を休止する日だ。 フィレアが求めているのは、まさに今日の日食の日にのみ咲くと言われる花だった。 それは、光の中では決して綻ぶことのできない女神の花。 一夜限りの夢に等しい、闇の中で咲き光を浴びて枯れる花。 愛を司る女神と同じ名を冠されたその花の名は、アイリス。 それを、足の悪い父に一目見せてやりたかった。 父がその花を好きだと知っていた。見せてあげることができればきっと喜んでくれると、子供心にそう思ったのだ。 だから、昨夜は天球の光が消えると同時にベッドに潜り込んだ。 そして、いつもと同じだけの時間を眠って、いつもより少し早く目を覚ました。 父はおそらく反対するだろうから、見つからないようにこっそりと家を抜け出すつもりでいたのだ。 だが、フィレアがいつもより早く目を覚ましても、父はそれよりさらに早く起きていた。 いつもより早く起きてきた娘の姿を見て、父は当然のようにその理由を問いただした。 とっさに言い訳らしい言い訳をいくつか考えてはみたものの、父の前で嘘をつくことができなかったフィレアは、結局外に出ようとした理由を正直に父に伝えることとなった。 案の定、そうすることが当然であるかのように、父は反対した。 獰猛な獣などがいないとは言え、寸分先すら満足に見通すこともできない闇の中を一人で歩くのは危険だと、幼いフィレアを優しく諭しもした。 けれども、父は、己を思う娘の願いそのものを否定したり拒んだりといったことは、決してしなかった。 そういう人だと、フィレアは知っていた。 だからこそ、気づいた時には、フィレアはいても立ってもいられず外に飛び出していた。 父はそんな娘の小さな背中を、驚いたように見ていただけだった。 その頃の父の足は、すでに、駆け出した子供を追いかけるどころか、その背を見送るために立ち上がることすらままならなかったのだ。 普段ならものの数分もかからぬほどの短い距離だが、思っていたよりもずいぶんと遠回りをしてしまったらしい。 あるいは、そんな風に感じたのも錯覚だったのかもしれない。 闇の中でこらしていた目をさらにこらすと、視界の隅に点々と揺れるほの青い光の群れが見えた。 「……あったわ」 フィレアは安堵の息を吐き出し、短い距離をさらに詰めるように早足で駆け出す。 光の群れがだんだんと大きく映るようになり、ほどなくして彼女は足を止めた。 「……よかった」 少女の視線の先には、淡い光を纏う小さな花がいくつも咲いていた。 この闇の中にあってこそ咲くことのできる花――紛れもなく、アイリスだった。 「咲いてくれて、ありがとう。……でも、ごめんなさい、アイリス。……あなたたちの命を少しだけ、わたしにください」 闇の中ではいっそまぶしいほどの光を放つアイリスの小さな群れの前で、フィレアはそっと膝を折りひざまずく。そうしてぎこちなく両手を動かし、彼女が知る方法で束の間の祈りを捧げた。 さわ、と、吹く風が花を揺らしたような心地がして、それがアイリスの答えだと、フィレアは感じた。 「……ありがとう」 囁くような声で呟いて、咲き綻ぶ花の幾輪かをそっと手折る。 触れたそばから魔力が少しずつ吸い上げられてゆくように感じたが、動けないほどではなかったので、フィレアはすぐに立ち上がると、元来た道へと踵を返した。 地面と切り離されたアイリスが咲き続けるためには、花が水を吸うように魔力を与えてやることが必要になる。その方法はごく単純で、ただ花を握り締めるだけでよかった。そうすれば、接触している手のひらを介しフィレアの魔力が花へと流れ込み、花の命を繋ぎ止められる。 もちろん、アイリスの花を手放せば、そこでフィレアからアイリスの花への魔力の供給は断たれてしまうので、さほど時間を置かずして花は枯れてしまうことになる。地表を覆う魔力は根の張られる地下に比べて微弱なため、落ちた場所にある魔力だけでは、長時間咲き続けることができないのだ。 残された時間はそれほど多くはない。だからこそ、フィレアはここまで来た時よりも急ぎ足で、道を辿っていく。 少しでも早く、父にこの花を見せてあげたい。 アイリスの花を手に入れた今、フィレアの胸中を満たす思いはそれだけだった。 「……?」 だが、駆け出すように飛び出したフィレアの足は、両手で足りる程度の歩数を数えたところで唐突に止まった。 闇の深さに慣れ、淡く光る花を手にしたことで、彼女の目に見える世界の姿ほんの少しだけが変わっていた。 ほのかに明るくなった視界の中、フィレアはある一点へと眼差しを注いでいた。 生き物の鼓動さえ聞こえてきそうな、静寂の中。否が応でも、自分以外の存在の気配には敏感にならざるを得ない。それが逆に功を奏したと言っても過言ではないだろう。 「……だれか、そこに、いるの?」 フィレアの口をついて出たのは、ある種の確信を持った確認の声だった。 木の根元のシルエットが、不自然にふくらんでいるのが見えたのだ。 フィレアの呼びかけに、そのふくらんだシルエットが、驚いたようにびくりと小さく跳ねた。 間違いなく、そこには『誰か』がいる。 「……いるのね。……、――こわがらないで」 フィレアはゆっくりと、その『誰か』の元へ向けて歩き出した。 誰であるかなど、問題ではなかった。 何よりも、怯えるように震える気配を感じたから――だから、行かなければならないと思った。 「――来ないで」 フィレアの呼びかけに応じたのは、澄んだ声音の拒絶だった。 それでも、フィレアは歩みを止めなかった。 茂みをかきわけて、さらに奥。大樹の根元にうずくまる相手の元へと、静かに踏み込んでいく。 闇の中で、星のような光を宿す眼差しとかち合った。 「……あなたは……?」 そこにいたのは、小さな膝を抱えて震える一人の子供だった。 少年とも少女ともつかぬ幼い子供で、こちらへと向けられた眼差しには、明らかな怯えの色が混ざっているように見える。 「……こわがらないで。だいじょうぶ」 逃げようとする素振りはうかがえなかったが、もしかしたら、逃げる力さえ残っていないのかもしれないと、フィレアは思った。 「――どうして、あなたはここにいるの?」 フィレアは言葉を選ぶように、いくつもの間を挟みながら、問いかけの言葉を連ねた。 だが、そっと投げかけただけのフィレアの言葉にも、子供はさらにぎゅっと身体を縮こまらせるばかりである。 「……こないで……」 この森に、人を食らうような獰猛な獣や魔物はいない。 そして、ここに自分たち以外の誰かが立ち入ってくることは、まずありえない。 それが、この森について父が定めた『ルール』だった。 しかし、今フィレアの目の前では、どこから来たかもわからない小さな子供が身体を丸めて震えているのである。 言わばこれは、あってはならないことだった。 この突然の、緊急事態とも異常事態とも言える状況は、フィレアにとっては想定外のこと以外のなにものでもなかった。 こういう事態に出くわした時、どうすればいいかをフィレアは知らなかった。この森にいる以上は、知る必要がなかったからだ。 こういう時、おそらくは逃げるのが一番なのだろうと、幼いフィレアなりに考えた。 全力で走って逃げて、たとえ手の中に握ったアイリスの花が散ってしまおうとも、父にこのことを一刻も早く知らせるべきだと、フィレアの頭の中の冷静な部分が答えを導き出した。 だが――フィレアはすぐに思い直した。 この暗く足元もおぼつかない森の中ではまともに逃げて帰れるとも思えないし、何より目の前にいる小さな子供は、身体を抱えて震えているではないか。 その姿はどう見ても、獰猛な獣のそれには見えなかった。 「……だいじょうぶ」 何度も、何度も呪文のように繰り返す。 今、この小さな子供に手を差し伸べられるのは、他の誰でもなく、自分しかいない。 そうと決まったら、そこに迷いはなかった。 「だいじょうぶよ」 淡い星の色に似たような瞳がフィレアをとらえた。 その綺麗な色の瞳から、大粒の涙がこぼれていた。 「どうして、泣いているの? ……いたいの?」 しかし、子供は答えない。口を固く引き結び、大樹の幹を背にしておきながら、さらに逃げようとするかのように身を捩じらせるばかりだった。 フィレアは相手の様子を少しでも確かめようと、じっと目をこらした。 足元にまで届きそうな長い髪も、瞳と同じような星の色をしていた。 女の子だろうかと少し思ったが、やはり見た目だけでは性別はわからなかった。 「……けが、しているの?」 すり切れたぼろのような服を纏う、その足元。おそらくは白いだろう肌に、獣の鋭い牙に噛みつかれたような跡があり、血があふれ出しているようだった。 それは、とても深い傷に見えた。たまらずフィレアは、握り締めていたアイリスの花を傍らに置き、両手を伸ばしたが、 「――っ、こないで!」 先程のそれよりもひときわ高く響いた声に、一瞬止まる。しかし、フィレアはまったくと言っていいほど聞く耳を持たずに、再び血があふれる傷口へと手を伸ばした。 「…………」 口をいったん結び、意識を集中させる。 体内を巡る魔力を、一点に集めて放出するようなイメージを思い浮かべる。 ――傷を塞がなければ。 この瞬間、フィレアの思考を支配したのは、そんなたった一つの思いだった。 傷を塞ぐための『魔術』――理屈は知っている。そしてどのように魔術を組み立てればいいか、その方法も知っている。 だが、他者の傷を癒すのは初めてだったので、本当にこれで大丈夫だろうかというかすかな迷いがフィレアの中に生じた。 (……だいじょうぶ。ちゃんとできる) その迷いを、頭を振ることで無理矢理払って、フィレアはすっと息を吸い込んだ。 「……癒しを」 わずかな音で構成されたささやかな一言が、フィレアの両手に淡い光を生じさせる。 子供はやはり怯えているようだったが、もう逃げようとする素振りを見せたりはしなかった。ただ息を飲んで、フィレアがもたらそうとしているものを見定めるようにじっとしていた。 光は、血に濡れた足元をやわらかく照らし、覆うように包み込んで、ゆっくりと傷を塞いでいった。 長いようで短い時間だった。フィレアの両手に灯った光が消えると、子供の足を痛々しく切り裂いていた傷口は、そこに傷があったのだろうと思わせるわずかな跡だけを残して塞がっていた。 「…………」 それでも、子供は呆けたように何も言わず、ただ己の足をぼんやりと見つめていた。 「……まだ、痛い? ……ごめんね、うまくできなくて」 「…………」 「父さんに見せてあげられれば、ちゃんと治すこともできるんだけど……」 「――いや、……大丈夫」 答える声に、フィレアははっと顔を上げた。 どことなく安堵したような穏やかな笑みが、相手の口元に静かに浮かんでいた。 「……だいじょうぶ?」 逆に不安になって、フィレアはついつい聞いてしまう。 「うん、大丈夫。……ごめんね、ありがとう。……ここは?」 「ここ……、……ここは、ウィルダの森よ。ディラリア大陸の、真ん中の上のほう。ハイゼルセイド王国の所有する、森。そのずっと奥」 父から教えられた言葉をそのとおりにたどたどしくなぞると、相手の顔が見る見るうちに怪訝そうに変化していくのがわかった。 「……ディラリア……?」 まるで聞いたことのない言語だと言わんばかりに、暗闇の中、何かを探すように左右に巡る視線があった。 その理由まではフィレアにはわからなかったが、ただ、相手が、どのような方法によってかはさて置き、ここに自らの力と意思で来たというわけではないらしいことは、幼い頭なりに理解した。 「《 言い方を変えてみると、それで相手は理解したらしく、小さく頷くのがわかった。 「そっか……、……きみは、どうしてここにいるの?」 何気ない問いかけに、しかしフィレアは一瞬言葉を詰まらせた。 「……あ、アイリスの花を探しに……あっ」 フィレアは、先程自分が地面に放り投げた花の存在をようやく思い出し、慌てて拾い上げたがもう遅かった。 あれほど大切に摘み取ったのに乱暴に放り出してしまったものだから、かろうじてまだ淡い光を放ってはいるものの、花弁が土で汚れて少し破れてしまった上にもう枯れ始めている。これでは、家に着くまで保たせることは難しいだろう。 フィレアは、落胆の色が濃く混ざる溜め息を吐き出し、肩を落とした。 その様子を見ていた子供が、フィレアの手の中で力なく揺れる花へと視線を移し、呟く。 「……アイリス……? ……ルシオール、か。それは……朝の訪れと共にフェーラ・シースの元に還ってしまう花だ」 「知ってるの? そう、……今日だけしか、咲けない花。父さんに見せてあげたかったの。でも……その前に枯れちゃう」 「……花としての形を保たせることはできないけれど……」 不意に差し出された手のひらと相手の言葉の意図がつかめずに、フィレアは大きく目を瞬かせた。だが、すぐに手の中の花を求めているのだということに気づいて、そっと手を伸ばし消えかけの光を纏う花を託す。 子供は両手でそっと包み込むようにアイリスの花を持つと、目を閉じておもむろに口を開いた。 「……ラー……シァラスィ……ェーノ――」 ゆるやかな、穏やかな、旋律。 その口から紡がれたのは、『歌』だった。 フィレアの耳には、知っている言語のそれとしては聞き取れない、だが、確かな旋律を持ったそれは、『歌』だった。 そして、それは魔術の詠唱だった。花を包み込んだ手の中から光があふれ、何かを求めるようにゆるやかに舞って収束していく。 まるで、アイリスの命そのものが、歌い、踊っているようだった。 「あ……」 飲み込んだ息が声となって吐き出される頃には、淡い光は眠るように消えていた。 おそるおそるといった風に、再び差し出された手のひらを覗き込むと、透き通った星のような丸い欠片が二つ転がっている。 つい先程まで花だったとは到底思えないものが、そこにはあった。 「……一つは、きみに。……もう一つは、僕のものだ」 ――少年は、手の中にある石の片方を摘み上げて、それを、フィレアの手のひらの上にそっと載せた。 小指の爪ほどの、とても小さな欠片。声もなくじっと見つめてから、フィレアは失くさぬようにと、しっかり握り締める。 「……あ、ありがとう……っ! た、宝物にする……!」 なくしたくないと思えるようなとても大切なもののことを『宝物』と言うのだよと、父が教えてくれた言葉を、フィレアはしっかりと覚えていた。 それはフィレアにとって、世界中に咲くどんな花よりも美しい、何よりの宝物になった。 「ありがとう。……僕も、……宝物にする。きみと僕だけの、宝物」 世界にただ二つの宝物。それは、二人が今ここで出会ったという、確かな証だった。 「――そろそろ、行くよ。……行かなくちゃ」 名残惜しむような色を浮かばせた目を伏せて、少年は何かを振り切るように立ち上がった。フィレアもその後を追うように立ち上がり、不安げな眼差しを向けた。 「でも、……怪我はちゃんと治っていないはずだわ」 「大丈夫」 大きく頷いて、茂みの外へと歩み出た少年は、フィレアを振り返って穏やかな笑みを浮かべた。 縮こまっていたから小さく見えただけで、少年はフィレアよりも頭一つぶん背が高かった。 「――僕は飛べるから」 その言葉にフィレアが目を見開いた瞬間、少年の背に大きな翼がばさりと広がった。 彼の身の丈をはるかに超える、どこまでも飛んでゆけそうな大きな翼だった。闇の中でも淡い銀色の光を放っているように見えて、フィレアは、驚きのあまりか何も言うことができないでいた。 「……だから、大丈夫だよ」 先程、フィレアが繰り返し彼に聞かせた言葉を、今度は彼がフィレアに繰り返し聞かせている。 少年は、ばさり、と一度確かめるように翼で風を仰いでから、フィレアのほうへと一歩身を寄せた。 「……っ、また、会える?」 とっさに口をついて出た言葉に、少年は目を丸くした。 開きかけた口が、意を決したように言葉を紡ぎだすまでに、わずかな間があった。 「……また……会えるかは、わからない。でも、きみが、僕を忘れないでいてくれたら。……覚えていてくれたら、きっと」 それが、少年の答えだった。 再び出会えるかどうかは、わからない。 確かな約束には、決してなり得ない。 再び生きて会える保証など、どこにもない。 きっと彼はとても遠いところからやって来て、とても遠いところへ帰るのだろう。 もしかしたらそこは、人間には辿り着けない世界かもしれない。 それでも、フィレアは彼の言葉を信じた。彼から託された石をさらに強く握り締め、大きく頷くことで、彼の言葉に対する答えに代えた。 「……忘れないわ。ぜったいに。だから、あなたも、忘れないでね。……いつか、また、会いに来てね」 「……ありがとう。うん、僕も、絶対に忘れない。……約束」 少年は、そっと両腕を伸ばしフィレアを抱き締めた。 まるで指きりを交わすその代わりのように、彼女の額に唇を寄せる。 わずかに触れる、ただそれだけの。 (……あたたかい) けれど、それだけで、全身にぬくもりが広がっていくような気がした。 そんな一瞬のぬくもりが離れると同時に、少年の身体もフィレアから離れる。 「……さよなら」 少年はフィレアからさらに離れると、しっかりと踏みしめた両足で地面を蹴って舞い上がった。 風をはらんだ翼が、あっという間に少年を空高いところへ連れてゆく。 少年の姿がだんだんと遠くなり、次第に闇に溶け始める。 それをぼんやりと見上げていたフィレアだったが、不意に忘れていたことを思い出して、声を上げた。 「――待って!」 少年の動きが、止まる。フィレアは喉の奥に吸い込んだ空気のすべてを声に変え、思いを込めて、叫んだ。 「……っ、わたし、わたしの名前は、フィレア! フィレア・ターンゲリ! ……あなたの、名前を、――おしえて……!」 フィレアの声が届いたのだろう。少年の口が、大きく動いた。 「──……」 その瞬間。突き上げるような突風が、二人の間を駆けてゆく。 フィレアと同じように、少年もまた、口を開いて何かを――おそらくは名を伝えようとしてくれたようだったが、その声がフィレアに届くことはなかった。 穏やかな微笑みを残して、大きく手を振り──翼を持った少年の姿はそのまま、暗闇の中へと消えていった。 風が吹く。穏やかな風が、頬をなでてゆく。 「……また、会える……?」 その声もまた、風に紛れて消えていった。 後には、眠りにも似た静けさが、まるで薄闇のヴェールを被せられたように横たわっているだけ。 フィレアは、握り締めていた手をそろそろと開いた。 幼い少女の小さな手のひらの中に、それよりもさらに小さな星の輝きが、確かに残っていた。 このわずかな時間が夢ではないのだと、教えてくれていた。 「……また、会えるかな」 それが、遠い日のただ一度きりの出会い。 |