第 一 章 過 去 か ら の 使 者3
ドラグール大陸南部、グラスランド王国の都ファラン。 フィルタリア南西部、竜の顔の形にたとえられるドラグール大陸のちょうど鼻の辺りに位置しているため、《竜の鼻先》とも呼ばれているここは、北の王国――《竜の瞳》ことリュインと並ぶ、魔術師たちの学び舎だ。他国から学びにやってくる者も多いため、街中には若い魔術師の姿が多く見られる。 魔術師であるフィレアが旅の途中という名目で滞在するには、とても都合のいい場所でもあった。 「ここにも、もういられないかな……」 居心地のいい場所だった。穏やかな人々も、活気にあふれた街も、《風の森》ウィンディアから吹く始まりの風の優しい歌声も。 けれど、一度でも偉大な英雄と呼ばれた人物の噂が持つ翼は、思った以上に大きく羽ばたくものらしい。 海を越えてもなおつきまとう英雄の影は、やはりここでも傍らにあった。どこまでもついてきて彼女の前に姿を見せる、それはまるでフィレアの『影』そのものだった。 フィレアにとって、《黄昏を導く者》クロイツの名は、禁句と言っても過言ではなかった。 クロイツ・C・ターンゲリ。《黄昏を導く者》と称された、炎の使い手。 彼の過去については、おそらくは、フィレアよりも世界中の人々のほうがよく知っているだろう。 彼は英雄であり、同時に大罪人でもあった。 ドラグール大陸よりさらに北方に位置する、ディラリア大陸。 広さはドラグール大陸のおよそ三倍、大地母神フィリア・ラーラの胴の部分になぞらえられたこの広大な大陸を、かつて、二つに分ける戦いがあった。 ディラリア戦役と呼ばれる、約二十年前に起こった大戦である。 大陸中が戦火に飲まれ、多くの街が瓦礫と化し、多くの人々が命を落とした。 二十年という歳月を経てもなお、あちらこちらにいまだその爪痕が深く残っている──それほどまでに凄まじい戦いだった。 クロイツはその大戦において、自国を勝利に導くほどの活躍をしておきながら、王の命令に逆らい、逃亡の果てに処刑されたと歴史は記している。 その『命令』がどのようなものであったのかは、公にはされていない。ただ、彼がその『命令』に逆らって逃亡し、後に処刑されたという事実のみが、歴史の一つとして刻まれているだけだ。 その事実はおそらくは、これから先も覆されることはないだろう。 しかし、クロイツという男が大戦の最中に、それこそ英雄と呼ばれるほどの働きをしたことも、また事実なのだ。 もちろん、ディラリア戦役が起こっていた頃にはフィレアはまだ生まれていなかったため、クロイツという男がどのような活躍を見せたのかは、記された歴史の中の出来事としてしか知らない。 《黄昏を導く者》──かつて起こった戦争を終結に導いた英雄、クロイツ・C・ターンゲリ。 その娘、フィレア・ターンゲリ。 それが、彼女の名だ。 クロイツに娘がいたという記録は、公にはされていない。だから、彼女の出生を知る者はいないと言っても過言ではない。 それでも、彼と同じ赤い髪に金色の瞳を持ち、彼と同じく炎の魔術を得意とするフィレアは、紛れもなく彼の血を受け継いでいた。 彼女がそうと名乗れば、認める者もいるだろう。ただ、彼女は今までそれをしてこなかった。 フィレアがクロイツの娘だと知れるようなことがあったら、間違いなく、クロイツについて多くを聞かれるだろう。 あるいは、犯罪者の娘だというだけで、フィレア自身が断罪されてしまうかもしれない。 それほどまでに、クロイツの持つ力は畏怖の対象だった。フィレアが受け継いでいるのは、そんな彼の血と力だ。 《黄昏を告ぐ者》──クロイツ・C・ターンゲリ。 彼が王の元より逃げてから、処刑されるまでの空白の数年間。 フィレアはその間の彼の姿を、クロイツに一番近いところで見ていた。 なぜなら、その空白の数年間こそが、フィレアが生まれ育ち、彼の元を去るまでの間のことを指しているからだ。 しかし、フィレアが知るクロイツの姿は、歴史が語る英雄像には遠く及ばない。 彼と共に過ごした時間は決して長いものではなかったが、それでも、別れるまで常にそばにあったその人は、炎を手に戦場を駆けた『英雄』と呼ばれた男の面影を、到底、持ってはいるようには見えなかった。 戦う者としての顔を、戦争の終わりと共に置いてきてしまったかのような──事実、そうなのかもしれないが── あえて言うならば、糸が切れて動けなくなってしまった人形。 フィレアにとってのクロイツは、そんな男だった。 畏れも憎しみも、彼に対して感じたことはなかった。英雄だと思えなかった代わりに、大罪人だとも思わなかった。 彼が教えてくれたのは、魔術の簡単な使い方とこの世界で生きていくためのわずかな知恵。それだけだった。 今となっては、彼がどんな顔で笑いどんな声で話していたかさえ、ひどくおぼろげに霞んでいる。 だから、自分が彼の娘であると言われても、とても実感が湧かないというのが本当のところだった。 |