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第 一 章  過 去 か ら の 使 者


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「聞いたよ、フィレア・ラーラ。《竜の牙》山の獣王が、尻尾に火をつけたまま逃げ出したんだって?」
 その夜の《しろがねの牙》亭は、若き二代目グリム・アルゲントゥムの言葉のとおり、魔術師フィレア・サーヴァスが成し遂げた魔物討伐の話で持ちきりだった。
 フィリア・ラーラの恵みたる畑の作物や森の果実を食い荒らし、討伐に向かった勇気ある冒険者たちをも食らっていた《竜の牙》山の獣王こと通称《翼ある黒獅子レナーリオン》に、若干十七歳の少女がたった一人で挑んで見事に打ち負かしたというのだから、騒ぎにならないはずがない。
 主役の到着を今か今かと待ち侘びていた常連客の面々が、まだ少女と呼んでも差し支えのない娘を歓声と酒気を帯びた赤い顔で出迎える。
 フィレアはぐるりと店内を見渡し、それからカウンターへと足を向けた。
「雄叫びが《西風の女神ユーライア》の憂鬱な溜め息だったそうじゃないか。この辺じゃかなうやつはいないとまで言われてたのによ。たいしたもんだ」
 主役が到着するより先にできあがっている常連客の言葉を軽く聞き流しながら、フィレアは彼女のために用意されていた席の一つに腰を落ち着けた。そうして、テーブルの上に置かれたグラスを見やる。
 グリムお手製のカクテル──甘いシャンパンをベースにレッドベリーとグレープフルーツを混ぜ、その上にたっぷりとシャム・ペッパーをふりかけたそれはその名も『フィレア』というのだから、グリムがいかに彼女に好意を抱いているかがわかる一品とも言えるだろう。
 短くそろえられた炎のような赤い髪と、どこか近寄りがたい雰囲気さえ帯びる金色の瞳。
 彼女の姿を目にした人の多くが真っ先に『彼女』としてとらえるのが、この二つの色だ。
 無論、グリムとてそれは例外ではなく──彼女を表す二色が絶妙に混ざり合って出来たような鮮やかな液体に、フィレアは小さく眉を下げた。
「レッドベリーの割合を少し増やしてみたんだ。だからそのぶん、甘くなっていると思うんだけど」
 いただきますと小さな呟きを落としグラスを持ち上げ、冷たいそれを一口含む。匂いから想像がつくような、甘酸っぱい味が広がった。喉越しもよく、後味はすっきりとしている。
 先日飲んだそれよりも確かに甘味が増しているそれは、よりフィレアの好みに近づいた、そんな味だった。客の細かい好みを忠実に反映させることのできるグリムのカクテル作りの腕は、フィレアも認めざるをえないほどのものである。
 けれどそこには、少なくともフィレアにとってはとても余計なものが常に付随しているのだった。
 グリムがフィレアに出すカクテルに、いつも混ぜるスパイスのようなもの。すなわち、それはフィレアに向けた甘く淡い恋心というものだ。
「リトルマスター・グリム。お手製のカクテルは美味しいけど、女心を解き明かすにはまだまだ修行が足りないわ」
 そんなグリムの控え目ながら情熱的とも言えるアプローチに、フィレアの反応はというとつれないものだった。フィレアはグリムの出す酒は好むが、グリム本人に対し異性として意識をしているということはまったくなかった。
 フィレアに対するグリムの思いは一方的なもの――片思いに過ぎず、はなから相手にされていないというのが実情だが、それが常連客の酒の肴になっているのもまた事実だった。若者の恋心は格好の隠し味というわけである。
 それでも、グリムはまったく懲りた様子を見せない。今夜も、いつもと同じ調子だった。
「ぜひとも女心を解き明かす方法を伝授していただきたいくらいでさ、フィレア。このカウンターがなければ俺は今にもきみを抱き締めてしまいそうだっていうのに」
「あんたの熱意には乾杯して差し上げたいところだけど、そういうのは女に尋ねる時点で間違ってるの。しかもわざわざフィレア・ラーラだなんて。フィリア・ラーラに失礼じゃない」
「うん? 失礼だなんてそんなことはないさ。それに、フィレアっていうくらいだから、フィリアに肖ってるってこともあるかもしれないじゃない? 違う?」
 フィルタリアでは女性の名前の後につく『ラーラ』は言わば敬称で、大地母神であるフィリア・ラーラに由来している。高貴な女性や元々姓を持たない女性、あるいは、好意を持った女性などの名につけて呼ぶのが、この世界ではごく一般的だ。
「さあて、どうかしら。知らないわ。女神と一字違いだなんて、大それたことだとは思うけど」
 フィレアは、やはりそっけなく呟いていた。先ほど湿らせたばかりの口の中が、妙に乾いているような気さえした。
「叶うことなら、フィレアの大活躍をこの目で見たかった。……かの英雄、《黄昏を導く者》を思わせる、鮮やかな紅蓮の炎を纏いし女神、ってね」
 グリムは腕を組みながら、心なしか気取るように言った。
 彼の口から出てきた名前に、フィレアはぴくりと眉を跳ねさせる。
 それは、フィレアもよく知っている名だった。
「……《黄昏を導く者クロイツ・C・ターンゲリ》……?」
「そうさ、知っているかい? 炎を纏いながら空を飛んだとまで言われてる大英雄さ。……噂じゃあ、クロイツもフィレアみたいな、炎のような真っ赤な髪と金色の瞳を持ってたっていうし、フィレアに魔術を使わせたらかなうやつはいない。もっとも、クロイツは男だったから、フィレアみたいに綺麗かって聞かれたら……」
「……で、その英雄とあたしが似てるとでも言いたいの?」
 フィレアは右手で頬杖をつきながら、無意識に耳元をなぞった。
 片耳だけの、淡く透き通った金色の石のイヤリング。幼い頃から身につけているそれにことあるごとに触れるのが、フィレアの癖だ。
 一見、何の変哲もないように見える淡い金色の石。けれどそれに触れることによって、フィレアの精神は平静さを取り戻す。言わば、フィレアにとってのお守りだった。
 その時グリムを見やった己の眼差しが、自分でも思っていなかったほどに冷えていたことを、フィレアは自覚していた。
「顔とかは知らないから、似てるかどうかまではわからないけど、でも……フィレアがクロイツの生まれ変わりだって言われても、俺はきっと信じられる気がするな。まあ、彼が処刑されたのは俺がガキの頃だし、年齢的には合わないんだけど――」
 おそらく、彼女を誉めることにばかり気を揉んでいたグリムは、まるで意識していなかっただろう。
「──まあいいわ。この話はなし、ね。グリム、やっぱあんたはまだまだ」
「えっ、フィレア……」
「余ったぶんはみんなへのおごりにしてちょうだい。それじゃ、ごちそうさま」
 フィレアはグラスの中身を一気に飲み干し、その勢いのまま席を立った。懐から取り出した金貨をまとめてカウンターの上に置くと、手のひらを軽く左右に振り、グリムの返答を待たずに足早にその場を離れる。
 グリムが彼女を引き止める間も与えず、扉はドアベルの小気味よい音を響かせて閉ざされた。
 一拍遅れて、店内がしんと静まり返る。あっと言う間に去ってしまった『主役』の、後姿を見送ることさえもうできない。
「何やってんだよ、若旦那。今日はらしくねえなあ」
「追いかけなくていいのかい? まあ、若旦那のことだから、振られちまうだろうけどな」
 そしてぽつぽつと零れ出す、取り残された客たちの溜め息交じりの揶揄の声。グリムは何が起こったかもわからず半ば呆然として、閉まった扉を見つめていた。
「フィレア……」
「……馬鹿だね、グリム。もう少し言葉を選んでおいで」
「テレジア」
 フィレアの隣に座っていた常連客の一人──ゆるく波打つ蜜色の髪と切れ長の琥珀の瞳を持つ、テレジアと呼ばれた精霊族エルフの女が、笑いを堪えているような顔でジョッキを煽る。
「いくらあの子が強くて、あの子の血がどうであれ、世間じゃ『大罪人』と称された男に似てるって話なんざ、気分のいいものじゃあないだろう」
 この時、グリムは無意識にフィレアの機嫌を損ね、あるいは傷つけてしまっていたことに、ようやく気づいた。
「……でも、俺はそんなつもりで言ったんじゃ」
「確かに、あの男は英雄だった。お前さんに悪気がないことくらい、あの子だってお見通しさ。あんたの情熱も思いもあの子は知ってる。でもね、あの子には、お前さんじゃあ駄目なんだよ」
 追いかけて謝らなければとグリムは思ったが、きっと謝ってももう遅いのだろうという、確信に似た予感があった。
 どんなに心を尽くしても、彼女は自分を許しはしないだろう。
「覚えておきな、グリム。女ってのはね、男が思うよりずうっと繊細で勘がいいんだ。それに、あの子を引き止める力は、お前さんにはない。……あの子を取り巻く運命は、お前さんが想像しているよりもうんと厄介だ。……あの子は、平穏に縛られるような子じゃあないだろう」
 偉大なる先人とも言える女の言葉に、グリムは息を詰まらせ、その先に続くかもしれない言葉から逃げるように目を逸らした。
 テレジアもそれ以上は言わずに、目の前に置かれたジョッキを持ち上げ、中身と共に言葉を飲み込んだようだった。
「……ああ、いい夜だ。こりゃあ、いい風が吹くだろうね……」
 テレジアが零した呟きは、すぐに取り戻された常の喧騒と酒の香りに、瞬く間に溶けて消えていった。



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