第 一 章 過 去 か ら の 使 者5
青年の部屋を頼んだついでに飲み物とカップを貰い、二階の自室へ彼を招き入れる。 ベッドのシーツは新しいものに取り替えられたばかりで、部屋の中は清潔な石鹸の匂いに満ちていた。 一人用の部屋は寝ることだけを目的にして造られているためか、六畳にも満たないスペースの中にベッドとテーブルと椅子が置かれているだけの、とても殺風景な装いをしていた。ベッドの傍らに放り出されている荷物も、女の一人旅ではそれほど多くもないが、青年は興味津々といった様子で部屋中に視線を巡らせている。 「どこか適当なところに……って、早いわね」 「やっぱちゃんとしたベッドはいいよな、すぐ眠れそうだ」 フィレアがとやかく言うよりも早く、青年はベッドの上に腰を下ろしていた。そのまま仰向けに寝転がって起き上がるまでの動作を、フィレアは半ば呆れたように見つめる。 「寝るならお部屋の準備はすぐにできるそうだから、そっちでね。初対面の男と一緒の部屋で寝れるほど、世間知らずなつもりもないのよ」 「いやあ、まだ寝ないさ、フィレア。お前に話があるんだから」 「結構。じゃあさっそく、そのお話をうかがいましょうか」 フィレアは脱いだマントと手袋を椅子の背に引っかけると、そのまま腰を下ろし青年を見やった。 その真正面から挑むような眼差しに、青年の目もどこか真剣なものになった。 一息ついて、青年はゆっくりと口を開く。 「これは『遺言』だ。《黄昏を継ぐ者》──フィレア・ターンゲリ。契約はお前に継承される」 「……は……?」 面と向かっていきなり告げられた言葉に、フィレアは目を丸くする以外の反応を返すことができなかった。それも青年にしてみれば十分に予想の範囲内だったのだろう。吐き出す息と共に肩の力を抜いて、青年が笑った。 「……なんていきなり言われてもわけわかんねえよな。さて、どこから説明したもんか……」 真剣に考え始めた彼の様子を見て、フィレアは眉を寄せながらもそっと首を傾げた。 「ええ、本当、まったくもってわからない。……契約ってことは、あんたは精霊か何かの類なの?」 単刀直入に切り返すフィレアに、逆に青年が少し驚いたようだった。 「さすが、飲み込みが早いな。厳密に言うとちょっと違うんだが、性質的には似たようなもんだ」 「そう。なら、あんたは父と──クロイツ・C・ターンゲリと何らかの契約を交わしていた、ということ? 父が死んで、その契約があたしに継承……できるものなの?」 「ん、まあ、だいたいはそういうことになる。俺が説明するまでもなかったな。……初めからそういう『契約』にした……っつうと、少しはわかりやすいか?」 「……初めから?」 つまり、クロイツとこの青年との間で結ばれた『契約』は、初めからフィレアに継承されることを前提にして結ばれたものだと、青年は言っているのだ。 多くの契約は一代限りのものであり、術者が死んだらその時点で契約は破棄される。 だが、あらかじめ決められた誰かに継承されることを前提に結んでいれば、その契約を継承する新たな術者は、前の契約者と同等の条件で改めて対象と契約を結ぶことができる――というルールを追加することが可能になる。 「ややこしい話ね。あんたが父のことを知っているのはどうして?」 「この契約のために俺を召喚したのが、他でもないあの人だったからだ」 フィレアは続けようとした言葉をいったん口の中に押し込めて、じっと青年の瞳を見つめた。青年もまた、怖じる様子もなく、まっすぐにフィレアを見つめ返してくる。 曇りも翳りもない澄んだ色の瞳だと、フィレアはその時、初めて思った。 青年の言葉に一握りの嘘も混じっていないと、信じることは容易いだろう。少なくともでたらめを並べているようには聞こえないし、フィレアを騙すためならもっと簡単な方法はきっといくらでもある。 けれど、初対面の青年を何の疑いもなく信じられるほど、フィレアもお人好しではないという自覚はあった。 「……あたしに、それを信じろという根拠は?」 「それを見せるために、フィレア、お前を迎えに来たんだ。……お前自身の目で、確かめてもらうために」 やはり青年の、男性らしい低い声で紡がれる言葉は揺るぎない。今ここでフィレアがどんなにひどい言葉を浴びせても、何も言わずに受け入れてしまいそうな、穏やかな響きだった。 「いきなりそう言われて、はいそうですかって頷くような女に見える?」 「少なくとも、いい女には見える」 そして青年の口からさらりと紡がれた言葉に、フィレアはとうとう目を丸くした。 青年は冗談で言っているのではない。嘘を吐いているわけでもない。きっとそうなのだろう。 何の前触れもなくいきなり目の前に現れておいて、フィレアを心ごとどこかに連れてゆこうとしている。 フィレアは呆気にとられたような顔でしばらく青年を見ていたが、不意に小さく肩を揺らすと、そのまま堪えきれずにかすかな笑みをあふれさせた。 「よく言うわ。生意気ね。……飲むんでしょう?」 「ん? もちろんいただくさ」 フィレアは持ち込んだ飲み物──レッドベリーの果実酒のボトルを開けて、二つのカップに注いだ。 片方のカップを青年に渡し、乾杯のつもりで軽く縁を触れさせる。かつん、という無機質な音が、一瞬生まれた静寂をかち割っていく。 一口含むと、心地よい果実の香りがふわりと広がった。その香りと味が、不意に思考を泳がせる。 「……その契約を継承するのを、拒否すると言ったらどうなるの?」 青年の目が細くなった。フィレアはカップを持ったまま、じっとその眼差しを見つめる。 「お前が俺と契約を結んでくれなければ、俺は『はぐれ者』として迷うだけだな」 「……でしょうね」 それは、予想していたとおりの答えだった。 『はぐれ者』とは、まさに言い得て妙であった。 契約が交わされないままでいると、契約の対象となる存在は『誰のものでもなくなってしまう』のだ。 青年はクロイツと契約を交わしたことで、クロイツに使役される存在となった。 それが、今度はフィレアと契約を交わすことによって、フィレアに使役される存在になろうとしている。 しかし、今の段階ではまだフィレアと契約を結んでいないので、青年は誰に使役される存在でもない──すなわち、誰のものでもない状態になっているはずだ。 このままの状態が長く続くと、契約そのものが成り立たなくなり、誰にも使役されることのない『はぐれ者』となってしまうのである。 はぐれ者となった時点で、意思そのものが失われてしまう。ただあるがままに世界をさまよう存在となり、そして、やがては混沌に食われたり、使えないまま封じられた力が暴走してしまったりという、救いようのない結末がその先に待っているだけだ。 だからと言って、一度『他者に使役される』存在となってしまった以上は、その先何が起ころうとも元には戻れない。すなわち、他者との契約でしか己の存在を保持できなくなってしまうのだ。 青年の命と運命は、まさにフィレアの手に委ねられていると言っても過言ではなかった。 「どのみち、契約はもう継承されるしかないんだ。……今更、全部なかったことになんてできやしねえ」 青年の声が低く落とされる。 「……それは、そうだけど」 「お前に拒絶されたら、俺はもうこの世界の理の中じゃ生きていけないんだ。お前がお前の力で《 フィレアは小さく溜め息をついた。 「ばかね、誰も契約を結ばないなんて言ってない。でも、自殺志願ならよそへ行ってちょうだい。死にたいって自分で言うやつを殺して差し上げるほど、あたしは優しくもなければ暇でもないの」 ほんの少しの怒気を孕んだ冷ややかな声が、感情を隠すことなく青年にぶつけられる。表情は、言うなれば『不愉快』そのものだ。 「……そこまで言ってくれるのか、フィレア」 だが、フィレアのそんな勢いにも、青年は一瞬呆気に取られたような表情を垣間見せはしたものの、どこか満足したように笑った。 「やっぱり、お前は、俺が見込んだとおりの……、いや、それ以上のいい女だよ、フィレア。……ついでに言うと、この契約をお前に継承することを望んだのは……言うまでもないが、親父さんだからな」 何のためらいも迷いもなくさらりといい女だと言われるものだから、さすがに少々困惑してしまう。 それを誤魔化すようにわざとらしい咳払いをひとつしてから、フィレアは首を傾げた。 |