第 一 章 過 去 か ら の 使 者6
「……じゃあ、聞きましょうか。その契約の具体的な中身は?」 「お前が死ぬまで、お前を護ること」 それはとても単純で、かつとても明確な『要求』だった。 「……それはまた、父もずいぶんと身勝手なことを望んだものね」 他の誰でもない父が、それを、このどこの誰ともわからぬ青年に望んだのだろうか。 それこそが『契約』であるならば、答えは疑いようもない。 しかしこの時、フィレアの胸中を満たしたのは、言葉にしがたいとても複雑な感情だった。 父にとって、己という存在は、赤の他人の命を縛りつけてまで護らせるほどのものだったのだろうか―― あえてそれを口に出すことはせず、フィレアはかすかに口の端を吊り上げた。 「……言ってくれるじゃないの。いいでしょう。どのみちあんたの願いを叶えるためには、契約するしかないんでしょう? ──で、契約の方法は? 精霊と契約するように、あんたにもそれをやればいいの?」 ともすればこの場で契約を済ませてしまおうと言わんばかりに立ち上がるフィレアに、しかし、青年は途端に困ったように眉を下げ息をついた。 「ああ、契約のやり方はそれでいい。ただ、困ったことにな……」 「何か他に問題があるの?」 「名前が思い出せねえんだ」 「……ばかじゃないの?」 フィレアは顔をしかめ、今度こそ、心底呆れたような声で言い放った。 「名前がなくちゃ、何もできないでしょう」 「わかってる。けど、これにはちゃんとした理由があってな」 フィルタリアにおける一般的な契約は、術者の血と対象者の名を交わすことで成立する。 彼の言う『契約』が以前に父と交わしていたもので、それが娘であるフィレアに正当に継承されるとしても──フィレアはフィレアとして彼を使役する以上、彼の主として改めて契約を交わさなければならない。 そのため、対象者である青年が己の名を思い出せない以上、契約を交わすこと自体が現状では不可能なのだ。 「理由って……どういうこと……?」 「何て言えばいいんだろうな。忘れたってのとはまた違って、取られたまま戻ってこない、っていうのが相応しいのか? まあ、実際そういう状態なんだ」 「……取られたまま? ……戻ってこない?」 「俺の名前は……フィレア、お前の親父さんが持ってる」 フィレアはどういう反応をすればいいかわからずに、困惑気味に眉を寄せた。 「でも……父は死んだはずよ。処刑されたの。もう何年も前に。父が死んだなら、戻ってくるんじゃあ……、……まさか……」 瞬く間に脳裏に浮かぶ、一つの疑問。その肯定こそが答えに違いないという言葉を、しかし、フィレアはすぐに口にすることができなかった。 だが、言わずとも察したのだろう、青年は静かに頷いた。 「それも、お前の目で確かめてもらいたいんだ。……だから、話は最初に戻る。――フィレア、俺と一緒に来て欲しい」 「一緒に、って、どこに」 「もちろん、俺がお前の親父さんと最初の契約を交わした場所……親父さんとお前が住んでいた、『家』さ。それと、もう一つ……お前宛てに預かっているものがあってな」 青年は懐から一通の封筒を取り出すと、フィレアに差し出した。 フィレアは、それを両手で受け取った。真新しさこそないものの、それほど古い感じもしない白い封筒だった。 表面に綴られた文字──己への宛て名に、フィレアは怪訝そうに眉を寄せる。 そこには、やや角ばった文字ではっきりと、こう書かれていた。 我が娘にして黄昏を継ぐ者 フィレア・ターンゲリへ 「……ふざけた人ね、継がせる気なんてなかったでしょうに」 それはフィレアの記憶におぼろげに残る、父クロイツの文字に間違いなかった。 封筒を裏返すと、フィレアにも見覚えのある、狼と炎を象った封蝋が押されていた。迷わずそれを一気に剥がし、中身を取り出す。 封筒に収められていたのは、たった一枚の白い便箋。それを広げると、やはり宛て名のそれと同じ角ばった文字が並んでいた。 フィレア。愛しい娘。きみに伝えたいことがある。 フィレアはゆるく息を吐き出し、大きく吸い込んでまた吐き出した。心は凪いでいるのに、手が小さく震えてしまうのを、抑えられない。 「まるで、今の会話を聞きながら書いたような手紙ね」 どうすればよかったのだろう。 どうすればいいのだろう。 それが今、求められている答えではないと知っていても、フィレアは、ここにいない誰かにそう問いかけずにはいられなかった。 |