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第 二 章  追 憶 の 森


2

 そうして、ファランを後にした二人は、まず北のリュイン王国に向かった。
 リュインより更に北に位置する港町フューリィから船に乗り、ディラリア大陸の玄関口であるルーディン王国へと渡る。
 そのルーディン王国を東西に分けるセバーン川を北上すると、王都でもある古代都市セティルに辿り着く。
 セティルまで来てしまえば、後はまっすぐ東に向かうだけだ。
 間に挟まれた二つの国の国境を越えると、いよいよハイゼルセイド王国である。
 フィレアが想定したとおり、ファランの都を出てから約一週間が過ぎようとしていた。

「このぶんだと、ちょうど日食の頃に着くかしら」
 運よく乗せてもらえた荷馬車の上で、フィレアはふと目を細め、世界を照らす頂上の天球を見上げた。
 そう言えばもうそんな時期だったかと、今更ながらに思う。
 フィレアの頭の中のカレンダーが正しければ、ちょうど数日後――ハイゼルセイドに足を踏み入れる頃には、年に一度の日食が訪れるはずだった。
「ねえ、アイリスって知ってる?」
 唐突と言えば唐突に何気なく問いかける声に、傍らでまどろんでいたクロノスがふと顔を上げた。
「……女神のほうか?」
 フィレアは頷いて、クロノスの顔を見る。
「それもあるんだけど、花の名前。知ってるのね? 日食の日にだけ、咲く花のこと」
「光に弱いんだっけか。フィリア・ラーラが嫉妬するくらいの美しさってやつだろうな。女は恐いな」
「……むしろあんたの想像力に恐れ入るわ、あたしは」
 さらりと紡がれる青年の言葉に、フィレアは目を丸くした。
「女神様の御心はさて置いても……あのお屋敷の近くにね、アイリスの花の群生地みたいなのがあったの。今も残ってるかは、わからないけど」
「日食の日は一日中寝てたなあ、そう言えば。せっかくなら、探しにでも行けばよかったか……」
 まどろみの淵からまだ覚め切っていないのか、呟くクロノスの声はとてもゆっくりとしたものだ。
「見つけても、次の日には枯れてしまうのに」
 フィレアは小さく息をつく。クロノスは、そんなことは些細な問題だとでもいうように、穏やかに笑っていた。
「見ればきれいだったと、覚えておくことはできるだろう?」
 その声も穏やかだったので、まるで毒気を抜かれてしまったような気分になる。
「……それはそうだけど。……寝てたってことは、じゃあ、今度の日食の日も動けなくなる?」
 クロノスはおもむろに大きな欠伸を一つこぼして、やはり穏やかな笑みを浮かべたままフィレアを見た。
「要は身体を動かすための魔力が、天球に吸われちまうからなんだ。だから、お前が魔力を貸してくれたら、動けなくなることはない。……ああ、別にやましい意味じゃなくてな。そばにいてくれれば、それでいい」
「……何でわざわざ余計なことまで言うの」
 わざわざ補足されると余計に変な方向に意識してしまう。怪訝そうな表情になりながらもわずかに顔を赤くしたフィレアに、クロノスはやはり笑うのだ。
「俺は別にやましい意味でも構わねえけどな」
「――っ、知らない!」
 天球の光は、いつもと変わらないやわらかさを伴って中天に浮かんでいる。
「……つか、そのアイリスの花がどうしたんだ?」
 まだ収まらぬ笑いを声に交えながら、クロノスが話の筋を元に戻した。
「……か、母さんが好きだったんですって」
「おふくろさんが? ……親父さんの部屋に、写真が飾ってあったな、そう言えば」
 クロノスの呟きに、フィレアはほんの少しばかり驚いたように目を瞬かせた。
「よく見てるのね。そう、あたしも写真でしか知らないの。……あたしが物心ついたときには、もう、母はどこにもいなかった」
 母について、父は多くを語らなかった。
 ただ、自分が生涯をかけても愛し、そして守りたかった人だと、寂しげに笑いながら呟いたのを覚えているくらいだ。
 いったい、自分を生んだ母親というのはどんな人だったのか。想像することはできても、それがはたして真実であるかどうかまでは、フィレアにはわからない。
 フィレアにできるのは、ただ、己の身に流れる血は、偉大な魔術師であった父と、そんな彼が生涯をかけて愛した人のそれなのだと思うことくらいだ。
 だからと言って、そこに実感が伴うわけでもない。
 偉大な魔術師であった父の姿をフィレアは知らないし、生涯をかけて愛したいと思えるような人に出会えたわけでもない。
 何より、己の身体中を満たす血に、それらの記憶が刻まれているわけでもないからだ。
「年に一度しか咲かない花ってのは、さぞかし、きれいなんだろうな」
 そんなフィレアの思考をよそに、クロノスがのんびりと呟いた。
「そうね、とてもきれいだったわ」
「お前みたいな花なんだろうな」
「……だから、あんたの思考はどうしてそうなるの」
「いや? 単純に、お前はきれいだって思ったからさ」
 クロノスの口から紡がれる言葉に、嘘を散りばめたような飾りはない。
 だからこそ、かえって反応に困ってしまう。
「反応に困る、んだけど」
 フィレアは思ったことをそのまま口にした。
「お前が嫌なら、これ以上は言わねえけど」
 こんなことは、フィレアにとっては生まれて初めてだった。
「……別に、嫌じゃない、けど」
「……そうか」
 二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。荷馬車は変わらぬ速度で、ゆっくりと街道を進んでいる。
 都市部から離れれば、街道を挟んでぽつぽつと、遠目に集落や村が見える程度だ。
 辺り一面を覆うのは、パーレの穂の緑色。時期が来れば金色に染まるそれは、今、天からの光を一身に受け止めてみずみずしく輝いている。
 若草の香りに鼻腔を擽られながら、フィレアは傍らの青年について考えた。
 クロノスはというと、荷馬車の揺れるリズムが心地よいのか、また目を閉じてまどろみの淵をたゆたっているようだった。
 よく見ると、睫毛がとても長い、と思う。
 今までよく見なかったせいもあったかもしれないが、見れば見るほど、彼は端正な顔立ちをしていた。
(下手したら、その辺の女よりよほど美人だわ)
 彼は、いったい何者なのだろう。
 知らないところからいきなり現れて、フィレアをどこに連れてゆこうとしているのだろう。
 どんなに考えても、彼が教えてくれたこと以上の答えは出そうになかった。



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