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第 二 章  追 憶 の 森


4

 やがて、二人の目の前に、周囲の木々よりも二周りほど大きな巨木が姿を見せた。
 その先に続く道は、目に見える範囲にはなかった。
「……そう言えば……天使様に会ったのも、日食の日だったな」
 言いながら、フィレアは巨木の根元に落ちている小さな白い石を拾い上げ、そのまま木に投げつけた。石はまるで空間に掠め取られてしまったかのように、木に吸い込まれて消えてしまう。
「……よく気づいたな」
 感心した様子でクロノスが言った。フィレアは軽く眉を上げながら肩越しに振り返る。
「やっぱり、あんたの仕業? ……あたしを誰だと思ってるの」
 フィレアはすぐに正面に向き直ると、投げ込んだ石の行方を追うように一歩踏み出した。その身体もまた、木にぶつかることはなく、吸い込まれるようにしてその向こうの空間に行き着いた。
「俺の新しいご主人様。……で、天使様って?」
 同じく空間を抜けてきた、クロノスの声が背中から聞こえる。
 巨大な木を通り抜けると、地面は草で覆われているものの、辛うじて道らしいとわかる道が姿を見せた。
 草の生い茂る道を、新たな道を作るように踏みしめていく。
「……家を出る前の、最後の年の日食の日だった。父は……あたしの知っている父は、足が悪かったの。その頃にはもう、まともに歩くこともできなくて、いつも松葉杖をついていた」
 脳裏に思い描いた父の姿は、やはりどことなくおぼろげだった。
 どんな風に笑っていただろうと考えても、うまく想像することができない。
「……ここよ」
 フィレアの足が、別れ道の手前でぴたりと止まった。つられるように、クロノスの足も止まる。
「ここを右に行くと、アイリスの花の咲く場所があるの」
「見に行くか?」
 あくまでも強制をすることはしない、そんな響きだった。
「行っても、まだ咲いてないわよ。明日か、明後日くらいには咲くと思うけど」
「天使様と出会ったのも、そこなんだろう?」
「……気になるの?」
「お前が天使様とまで言うようなやつだ。興味がないと言ったら、嘘になる程度には」
 それを聞いて、止まったままだったフィレアの足が、右に続く道へと踏み出した。
 ゆっくりと歩きながら、フィレアはおもむろに口を開く。
「父にアイリスの花を見せてあげたいって、その時、思ったの。年に一度しか咲かない、母さんが好きだった花。だから父さんも、きっと好きなはず。……そんなことを思ってた」
「親父さんのことだ。……止められただろう?」
「もちろん。でも、取りに行ったわ。明かりも持たずに飛び出した。時間がかかってしまったけど、何とか辿り着くことができた。少しだけ、花を摘んで……さあ帰ろう、って思ったその時ね。……茂みの中に、その子がいた」
「見つけたのか」
「見つけたのよ」
 これ見よがしにフィレアは大きく頷いた。
「父も、この辺りに結界を張っていたの。あんたがやった、さっきのあれみたいなものをね。だから、父とあたし以外に、誰かがいるなんてありえなかった」
「……ああ」
「天使みたいな翼が生えた……たぶん、男の子。足を怪我していたの。理由は聞かなかった。でも、魔物か何かに襲われて逃げてきたんだと思う。あたしは、無我夢中で魔術を使ってた。……とにかく、傷を何とかしなきゃって、あの時は必死で。大事に摘んだはずのアイリスの花を、地面に放り投げるくらいにね」
「……そうか」
 それで理解できたと言わんばかりにクロノスは頷いて、振り返ったフィレアを先に進むよう促した。
 言いながら、フィレアは耳元の石を探るように指先で触れる。クロノスの目がわずかに細められた。
「その石は?」
「天使様がくれたのよ。アイリスの花を、結晶にしたもの……だと思う。それで、行かなきゃって。……もちろん、どこに? なんて聞けなかった。……翼が生えたの。銀色の、大きな翼。有翼種だったんだと思うけど、その時、天使様だって思ったのよ」
「……なるほどな」
「性別は、でも、はっきりとはわからなかった。ただ、あの子が自分のことを『僕』って言ったから、男の子かなって思っただけで」
 言いながらフィレアが再び足を止めたのは、淡い緑色の草が生える小さな空間の前だった。
「ここに、アイリスの花が咲くのよ」
 今は背の低い草が地面を隠しているだけで、花らしきものは蕾さえもどこにもない。
 だが、それだけの小さな空間を見つめるクロノスの目が、どこか感慨深そうにも見えて、フィレアは怪訝そうに首を傾げた。
「……どうしたの?」
「なあ、フィレア。もしその時の『天使様』にまた会えたら……お前、どうする?」
 唐突にクロノスが呟いたので、フィレアはほんの少しだけ目を丸くした。
「……それをあんたが聞くの?」
 そう聞き返して、笑う。
「俺じゃなくとも、聞くやつはいるだろ。今の話を聞けば、なおさらな」
「そうね……」
 また会いたいとは思っていたが、会えるとは思っていなかった。
 今となっては遠い昔の、ただ一度きりの邂逅。あの時大きな翼をはためかせて去った少年が、今、どこで何をしているかなど――それは、まったくフィレアの想像の及ぶところではないからだ。
 生きているかどうかさえ、わからない。
 生きていたとしても、彼はもうフィレアのことを忘れてしまっているかもしれない。
 それほどまでに、流れた時間は長かった。
「……『ありがとう』かしら。やっぱり」
 それでも、伝えたい思いが今でもフィレアの胸の内に存在しているのは、確かだった。
 片耳だけのイヤリング。その小さな石自体が特別な力を持っているわけでもなかっただろうが、フィレアはただ一人きりの旅の中で、幾度となくこの石に助けられてきた。
 世界に、おそらくはただ二つだけの宝石――それを与えてくれたことに。そして何よりも、出会えたことそのものに。
 この一言だけで感謝の気持ちを伝えきれるとは、到底思えなかったが。
「……そうか」
「……何でそこで、あんたが嬉しそうな顔をするの」
 クロノスの顔に浮かぶ嬉しげな、むしろ誇らしげとすら言えそうな笑みを見て、フィレアは怪訝そうに首を傾げた。
「ありがとうって言われて、嬉しくないやつはいないだろ」
「そういうものなの?」
「そういうもんだろ」
 クロノスは多くを言葉にしなかった。代わりに大きな手をいきなり伸ばして、フィレアの頭にぽんと載せる。
「……って、ちょっと!」
 そのまま、容赦のない動きでくしゃくしゃになでられて、フィレアは抗議の声を上げるが、クロノスの手はそんなことはお構いなしと言わんばかりに彼女の赤い髪をなで回した。
「……そんなに嬉しいの?」
「ああ、嬉しいさ」
 たとえるならば小動物を扱うようなそれだったかもしれない。だが、決して乱暴ではない、どちらかと言えば親愛の仕草とも取れそうなその手つきに、フィレアは結局怒る気力もわかず、おとなしくされるがままだった。
 ひとしきりなでれば、クロノスも気が済んだらしい。乱したフィレアの頭を手ぐしで軽く整えながら、やはり笑っていた。
 どうして喜んでいるのかまではわからなかったものの、とりあえず喜んでいるらしいということは、フィレアにも理解できた。
「よし、そろそろ行くか」
 言うなりクロノスが踵を返したので、フィレアは思わず呆気に取られながらもその後に続く。
「気は済んだ?」
「お前こそ」
「あたし?」
 やはり思わず聞き返してしまう。先ほどからフィレアに届けられるのは、おおよそフィレアが想定しているものではない言葉や仕草ばかりだ。
 そして、それに知らず飲み込まれ、馴染みかけている自分がいることに、フィレアはうすうす気づいていた。
「そう、フィレア。お前の気は済んだか?」
「……あたしは、平気よ。元はと言えば、あんたが気になるって言ったからじゃない」
「まあ、確かにそうだけどな。……それなら、いいんだ」
 来た道を引き返し、分かれていたもう一つの道をまっすぐに進めば、やがて目的の地である屋敷が見えてくる。
 天球の光はいつの間にか弱まり、世界に夜の訪れを告げようとしていた。



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