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第 二 章  追 憶 の 森


5

 赤い煉瓦の二階建ての屋敷は、とてもこんな森の奥で隠居を決め込むには相応しくない大きさで、遠目に見ても過ぎ去った年月がわかるくらいに、壁面が蔦に覆われていた。
 その姿を目にした瞬間、心の奥深くで眠っていた記憶が、閉じていた蓋が開くようによみがえってくる。
 忘れかけていた姿が、ゆるやかに目の前の風景に重なった。
「思い出したか?」
「……うん。本当に、お屋敷よね。元からあったものを使わせてもらっていたんでしょうけど」
 心の中で小さな渦を巻く、言いようのない感情。これを懐かしいと言うのだろうかと思ったが、答えはわからないし、答えをくれる人もいない。
 扉にかけた手が、少し震えていた。
「別に魔物とかはいねえぞ」
「わかってるけど。……心の準備ってもんが必要なのよ」
「あと、鍵も開いてるからな」
「だから、心の準備くらいさせて!」
 クロノスに半ば促されるまま、勢いに任せて取っ手を引く。
 ぎしりと、軋んだ音がした。
 過ぎ去った年月のせいか、それとも心の内で渦巻く思いのせいか、子供の頃に比べると、あの時よりも力はあるはずなのに、扉はずっと重くなっているような気がした。

「……、……本当に掃除してたんだ」
 場違いとも取れるような、呆気に取られた間の抜けた声。
 フィレアの視界に飛び込んできた内部の様子は、おおよそ、彼女の記憶に残るかつての姿と一致していた。
「言っただろ、ちゃんと掃除もしてるって。……俺は嘘はつかねえぞ」
 無論、玄関脇に置いてあった鉢の中身はすでにないけれど――目につく変化らしい変化と言えば、それに加えて白い壁紙が日に焼けてしまっていることくらいで、埃が積もっている様子もなく、今まさに誰かが住んでいると言われればそれで容易に納得してしまえそうな、そこは人の住む気配の漂う空間だった。
 ――フィレアの知っている、『世界』だった。
「……っ!」
 胸の奥からこみ上げてくる言葉にできない感情に突き動かされ、フィレアはたまらず一歩を踏み出した。とっさの動きにもつれそうになる足を強く踏みしめることで叱咤して、長いようで短い廊下を駆けるように抜けていく。後ろからゆっくりと追いかけてくる足音が聞こえたが、それを待っていられる余裕などなかった。
 入り口からそう遠くない場所に、一つの扉があった。何の変哲もない、大きくも小さくもない扉だ。
 フィレアは何のためらいもなく、その扉を開こうと手を伸ばす。言うまでもなく、鍵はかかっていなかった。
 乾いた空気の中で、かすかに埃が舞った。
「…………」
 フィレアは、扉を開けたままの体勢で、言葉もなくその場に立ち尽くす。
 決して広いとは言えない、小さな部屋だ。フィレアが泊まっていたあのファランの宿の部屋を、一回りか二回り大きくしただけの、小さな部屋だった。
 入って一番奥の突き当たりに机があり、その隣にベッドが置いてある。一歩部屋に入って振り向けば、本棚に何冊かの、すっかり色褪せた背表紙が並んでいる。
 花もなければぬいぐるみもない。年頃の少女が好むような可愛らしいものは、何もない。
 飾り気のない、殺風景な部屋だった。
 けれど、そこは幼いフィレアが暮らしていた部屋──彼女の『世界』と言っても過言ではない場所の一つだった。
 フィレアは、自分の身体が震えるのを抑えられなかった。
 当たり前のように目の前に広がる空間に、どうしても感じざるを得ない違和感がある。
 部屋の中は、フィレアの記憶に残っているそのままの姿をしていた。
「どうして」
 フィレアは覚束ない足取りでベッドの方へと歩み寄る。
 シーツは綺麗に洗われて、真っ白だった。
 床に敷かれた絨毯も、歳月と共に色褪せた感じはするものの、まるきり埃で覆われているわけでもない。
 フィレアの記憶に残っている、そのままの部屋がそこにあった。
 もう何年も帰っていないのに、ここだけ、フィレアが過ごしていた当時から時間が止まっているようだった。
「……どうして」
 当の昔にすべてがなくなってしまっているだろうという、漠然とした予感があった。それは、いつしか確信へと変わっていた。
 しかし、予感は当たらなかった。かつて彼女を取り巻いていた空間はほぼそのままの形でここに残り、そして彼女の帰りをずっと待っていた。
 無論、クロノスがそれなりに手を施してくれていたおかげもあるだろう。けれど、きっとそれだけではない。
 フィレアは、自分の頬を伝う冷たい雫に気づいた。
 まるで『おかえりなさい』と言われたような気がして、どうしようもなく泣きたくなった。
 あふれる涙を止める術もわからないまま、くしゃくしゃに歪めた顔を、ゆっくりと近づいてきた足音の主に向けた。
「……おかえり」
「……っ、馬鹿!」
 心のどこかで求めていた言葉に、たまらず、フィレアはクロノスに飛びついた。そうでもしないと、あふれた感情が行き場をなくしてしまいそうだった。
「おかえり」
 クロノスは穏やかな声で繰り返す。フィレアは、とっさにつかんだ彼の服の裾を、縋るように力いっぱい握り締めた。
 ただいまと口にする間もなかった。ずっとずっと閉じ込めていた言葉にできない思いが、涙という形を取って堰を切ったようにあふれ出してきた。
 その華奢な身体を包み込むように、クロノスの腕がそっとフィレアをかき抱く。
 フィレアは拒む素振りも見せず、ただ、彼の胸に顔をうずめて泣き続けた。



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