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第 三 章  祈 り と 願 い の 果 て


1

 ――それは、とても遠い記憶だ。
「フィレア」
 まだ夜も明けきらぬ薄暗い中、己を呼ぶ声でフィレアは目を覚ました。
 父の大きな手に包まれて、抱き起こされる。
 おぼろげな視界が像を結ぶより先に、父の押し殺したような声が落ちてきた。
「もうすぐ、ここに大勢の人間たちがやってくる」
 その意味は、すぐには理解できなかった。瞬きを繰り返している間にも、クロイツの言葉は続いた。
「……その人間たちは、私を殺そうとするだろう。そして、私と共にいるお前をも」
 クロイツの腕に抱き締められて、フィレアは再び目を閉じた。
 夢でも見ているような感覚だった。むしろ、この瞬間こそが夢なのではないかとさえ、思った。
 こんな風に優しく抱き締められた記憶は多くはなかったので、少しでも長くこの感触に浸っていたかった。
 しかしそれも長くは続かず、名残惜しげに父の腕が離れ、また、父自身も離れた。
「地下道の行き方は、覚えているね?」
 大きな手の重みが、小さな頭に載せられる。
 フィレアは、しっかりと頷いた。そして、先程の言葉の意味をようやく理解した。
「私は、もう、ここから動けない」
 同時に、もうここには――父のそばにはいられないのだということを、理解した。
「だからせめて、フィレア。……きみだけでも、逃げなさい」
 もう、父にこのように触れてもらえない、――もう、父には二度と会えないのだということを、理解した。


 フィレアの予想どおり、目が覚めても空の色が暗かった。
 目覚めた時の心地よい気だるさは、間違いなく一晩眠った後のそれだったので、おそらくは今日が日食なのだろう。
 数年ぶりに眠った自分のベッドは、かすかに記憶に残るそのままの感触だった。
 ここまで帰ってきたという実感が、ここまで歩いてきた疲れと共に一気に押し寄せてきて――多くを考える間もなく、昨晩はあっという間に夢の世界に連れていかれてしまった。
 まだ知らない真実は、山のようにあるように思えて、実際はごくわずかなのかもしれない。
 父のこと。自分のこと。そして、自分をここまで導いてくれた彼のこと――
 庭の井戸は枯れてはいなかった。冷たい水で顔と頭を軽く洗いながら、フィレアは思う。
 今でも、あの場所にアイリスの花は咲くのだろうか――

「……よ、フィレア。お目覚めはどうだ?」
「おかげさまで。ぐっすり眠れた」
 美味しそうな匂いに引き寄せられるようにダイニングルームに姿を見せると、そこには、新聞を広げて我が物顔でくつろいでいるクロノスの姿があった。
 外は暗いが、室内は彼の手によるものだろう魔術の光で照らされていて、何をするにも不自由はない。
「……それは何よりだ。……何だ、見惚れたか?」
 彼がその手で広げているものが新聞であるということに思い至るまで、たっぷり数秒かかってしまった。
 からかうような響きがこもったクロノスの口調に、フィレアはそうじゃないと言わんばかりに小さく息をついた。
「何寝ぼけてんのよ。新聞なんか広げて気取ってる場合じゃないでしょう。起こしてくれればよかったのに」
「ぐっすりとお休みになられていたようだから。起こすのも悪いかと思ってな」
「……見たの?」
 うんと頷きかけて、フィレアはふと我に返る。
「別に手は出してねえから、そこは安心しとけって」
「そう言われてはいそうですかって頷けるかっていうと……、……まあいいわ」
「それに、新しくもねえよ? もともとここにあったものだからかなり古いぜ、ほら」
 フィレアの口が様々な文句を並べ立てるよりも早く、小さく折り畳まれたそれが目の前に差し出される。ぱっと見ただけで、かなり古いものであるとわかるほどに色あせた新聞だった。日付は十年以上前のものだ。
「どこから引っ張り出してきたの? 物好きねえ、あんたも」
「とりあえず暇つぶしにはなるかと思ってさ。それに、古いのもなかなか面白いぜ」
 言いながら、クロノスは見出しの一つを指差した。フィレアは大して興味もなさそうな顔で、それを覗き込む。
『《深緑の庭ヴェール・ジャルダン》の若き天才、アルフレッド・E・フィンランディア、史上最年少(二十一歳)でアカデミア・ファルシオン賞を受賞』――ぶつぶつと読み上げるフィレアの表情が、ゆるやかに変わっていった。その口から、今更ながらに感嘆の吐息が漏れる。
「な? 面白えだろ?」
 その様子を見ていたクロノスは、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。
 アカデミア・ファルシオン賞は主に、学術分野において世界的な功績を認められた者に対して贈られる賞である。毎年若干名が選出され、世界屈指の学術研究期間である《深緑の庭ヴェール・ジャルダン》が置かれているここハイゼルセイド王国で、盛大な授賞式が執り行われるのだ。
 フィレアも偶然ながら、過去に一度、その授賞式を見る機会に恵まれたことがあった。受賞者に贈られるのは、小さなアクアマリンを抱いた水晶の天使の像と、白い薔薇の冠。賞そのものには大して興味もなかったし、何より受賞云々以前の問題だというのはわかりきっていたけれど、美しい天使像と綺麗な花の冠には、やはり色々と憧れを抱いてしまったものだった。
「……知らなかった。フィンランディアってことは、アリスの親戚か何か? ……あの一族って本当に何でもできるのね」
 らしいな、とクロノスは小さく頷いた。フィンランディアと聞いてフィレアがまず思い浮かべたのが、『アリス・A=F・フィンランディア』その人であった。若干二十歳にして、世界文学の最高峰と呼ばれる『セラスティン・ファルシオン賞』を受賞したのは、人々の記憶にも新しいところである。
 もっとも、フィレアは受賞作である『翼を失くした天使の謳』よりは、一つ前の作品である『空の祈り』のほうが好きだったりするのだが、それはまた別の話だ。
「ま、いいけど。……ところで、これ、あんたが作ったの?」
 改めてテーブルの上に目をやると、少々硬くなったパンや干し肉などの他に、小さなオムレツが乗った皿が置かれているのにフィレアは気がついた。
「すぐにスープもあたたまるから、少し待ってろよ」
「……スープまであるの?」
 小さなキッチンの隅っこに目をやると、確かにスープが入っているらしい小さな鍋が火にかけられている。
 どうやら、漂う美味しそうな匂いの元はあれらしい。
「……あんたが作ったの?」
 まだ半信半疑の声で聞く。
「言っておくが、この家にゃ寝てる間に料理を作ってくれるような精霊の類はいないぞ」
「それはわかってるけど」
 立ち上がり、あたたまったらしい鍋の元へ向かうクロノスの背中を、目で追いかける。
 妙に慣れた手つきでスープをよそるその背中を眺めながら、フィレアは迷った末に席に着いた。
「まあ味は好みじゃないかもしれねえけど。悪くはないだろうから、取りあえず食え。昨日の夜から何も食ってないだろ、お前」
 湯気の立つ皿が目の前に置かれる。間近でその匂いを吸い込んだ瞬間、空っぽになっているのを忘れていたらしい腹がぐうと鳴いた。
「……っ!」
「ほら見ろ」
 心底楽しげに笑うクロノスに、フィレアは心なしか恨めしげな眼差しを向ける。
「……、……いただきます」
 何だか悔しくて素直に言えなかったが、ともかくも、フィレアは手を合わせて軽く頭を垂れた。
「ん。どうぞ召し上がれ」
 クロノスも頷いて、己の分のスープを用意し、フィレアの向かいの席に着く。
 それを待ってから、フィレアはスプーンを手に取った。
 少しかき混ぜてから、一口分を啜る。
 適当に切った野菜を適当に煮込んだような、ただそれだけのスープだった。だが、薄いながらも味付けはしっかりとされており、一言で言えば、それはとてもおいしかった。



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