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第 三 章  祈 り と 願 い の 果 て


6

「だって、あたしじゃなくてもよかったはずよ」
 クロノスはそれを肯定も否定もせず、ただ、まるで幼子を抱き締めるように、フィレアの頭を軽く抱いた。
 そのあたたかさに急き立てられるように、フィレアは、小さく肩を震わせた。
「あたし一人がいなくなったくらいじゃ、世界は何も変わらないでしょう? だから、あたしは、誰も知らないところでいなくなろう、消えてしまおうって……きっと思ったわ。一人だったら」
 家を出てからの自分が、まさにそうだった。
 己を取り巻く穏やかな環境こそあったけれど、心は常に孤独だった。
「でも、孤児院の人たちは、お前を愛してくれていたんだろう?」
 クロノスの言うとおりだった。育ててくれた神父やシスターたちは、フィレアに他の子供たちと変わらないたくさんの愛情を注いでくれたし、同じ境遇で育った子供たちも、フィレアを仲間であり同士だと、認めてくれていた。
「……そこにいたのが、たとえあたしじゃない他の誰かだったとしても、それは変わらなかったはずよ」
 神父やシスターたちは、そこにいる『フィレアではない誰か』にも、フィレアに注いだのと変わらぬ愛情を注いでくれただろうし、子供たちもまた、『フィレアではない誰か』を、同士として、仲間として受け入れただろう。
 フィレアでなければいけない理由は、一つもなかった。
「……それは、お前だけじゃないだろ。俺だって、他のやつらだって、みんなそうだ。ここにいたのが俺じゃない誰かだとしても、親父さんは、そいつに、お前を守れと言ったはずだ」
 たとえば、こうやってフィレアを抱き締めているのが、クロノスではない、他の知らない誰かであったかもしれないという可能性も、十分にあったのだ。
「わかってる。でも……」
 頭では理解しているつもりだった。
 けれども、心が迷ってしまうのはどうしようもなかった。
「……俺だって、お前が思ってるほど強くはないよ。……俺のことなんて、誰も知らないような世界に放り出されたんだ。お前が思ったのと、同じことを考えた。今更俺一人が消えたところで、世界は何も変わらないだろ? そんな風に思ったよ。……けど」
「……けど?」
「俺がここにいることには、ちゃんとした理由があるだろう、って思ったから。だから、それを確かめなきゃあ、死ぬに死ねないって、……そう考えられるくらいには、まあ、図太かったんだ」
「……そうね、言われてみれば確かにあの時のあんたも、たくましそうだった」
 あっさりとそう言い切ったフィレアに、クロノスが小さく肩を竦めてみせる。
「あの頃はまだ純粋で繊細だったんだけどなあ、一応。……そんなわけで俺は、この時代に来て最初に現れた場所まで戻ろうと思ったんだが、案の定、今度は方向がわからなくなってな。その時にも、実はこれが一度役立ってたりする」
 言いながらクロノスは、フィレアの右耳に輝く石を、くすぐるようにそっとなでた。
「……っ!」
 先程から何度目になるかわからない、肩を大きく跳ねさせたフィレアの抗議の眼差しにも、お構いなしと言った風に笑っている。
「……これを持ってるお前はまだ、出会った場所の近くにいるはずだっていう、俺の読みも大当たりだった。ただ、お前のそれがある場所を辿って着いた場所は、森じゃなくて外の街……グラスクロックだった。俺がここまで戻ってこれたのは、お前が家を出た後だったんだ」
「……じゃあ、父さんには会えなかったの?」
「いや。会えたよ。だが、結構ぎりぎりだった。親父さんも、さすがに時間を越えて召喚しちまったとは思ってなかったみたいだが……何と説明すればいいんだろうな。フィレア、お前の目で確かめてもらうのが、きっと一番なんだろうとは思うが」
「……そのために、あたしを、ここに呼んだんじゃあないの?」
 クロノスがふと口を噤む。言葉を探すように挟み込まれた間は、ごくごくわずかなものだった。
「覚悟がいるはずだ。……それでも?」
 フィレアは頷いた。
「当然。あたしを誰だと思ってるの。あのクロイツ・C・ターンゲリの血を引く娘、フィレア・ターンゲリよ」
 その言葉に、クロノスは、吐き出す息と共にやわらかく笑った。
「それだけ言えれば上出来か。……行くか?」
「あんたの体調が大丈夫ならね」
「俺の体調は、お前さえいてくれれば大丈夫だよ、フィレア。……むしろ、今日のほうが向こうにとっても好都合だろう」
「それなら早速行きましょう。お腹が空いてるなら、待ってあげてもいいけど」
「……ま、軽く腹ごしらえはしていくか」
 クロノスはそこでようやくフィレアの身体を離し、そのまま部屋を出ることを促すように軽く肩を押した。
 促されるまま足を踏み出しながら、唐突と言えば唐突に、フィレアはクロノスを振り返る。
「……で、あんたはどうして、あたしを助けてくれるの?」
「そりゃあ、最初に言っただろう? お前の親父さんが……」
「それもあるけど、そうじゃなくて」
 クロノスの言葉を途中で遮ると、フィレアは身体ごと彼に向き直り、その目をまっすぐに見つめた。
「父さんに言われたから、じゃない、あんた自身の意思を聞きたいのよ。クロノス」
 クロノスは驚いたような表情を垣間見せてから、やがて穏やかな笑みを浮かべて息を継いだ。
「お前は俺を助けてくれた。他に理由は必要か?」
 その言葉に、迷いはなかった。
 あまりにも迷いなく告げられたからだろう、表情を強張らせ、何も言い返せない様子のフィレアに、クロノスの目が細くなる。
「……まあ、成り行きはどうであれ、お前が俺にとって必要な、ただ一人の存在だから、ってのもあるけどな」
「……っ!」
 フィレアの肩が大きく跳ねる。
「だから……自分じゃない、他の誰かでも同じだとか、そんなことを考える必要なんてないんだ。お前を必要とする誰かが欲しいっていうなら、俺がお前を必要とする。……他の誰でもない、お前が必要なんだよ。フィレア」
 クロノスが続けた言葉――それこそが、フィレアが求めていた『答え』に他ならなかった。
 フィレアは震える声を息と共に吐き出すと、クロノスに背を向けた。
 その意図をすぐに察したらしいクロノスが、小さく舌を打って再び両腕をフィレアへと伸ばし抱き寄せる。
「……ばかだな、男に背中を向けて泣くやつがあるか」
「だ……って……」
「こういう時くらいは、一人で抱え込もうとするな」
 他の誰でもない、『フィレア・ターンゲリ』を必要としてくれる誰かの存在が欲しいと、フィレアは心のどこかでずっと思っていた。
 誰にも望まれず、誰からも必要とされていない自分が、望まれる理由が、必要とされる意味が、欲しかった。
 そこに、生きることの意味があるような気がした。
 ――そんな風に思考を泳がせる時、決まって思い出すのは幼いあの日の出会いだった。
 もう一度会えるとは思っていなかったが、会えるかもしれないという期待や願いを捨て去ることはできなかった。
 会えたとしても、フィレアを覚えてはいないかもしれない。あるいは必要としてくれないかもしれないという、思いはあった。
 それでも、もう一度会えたら何かが変わる気がすると、それは、祈りにも似ていた。
「あたし、……っ、あたし、ここにいてもいいの……?」
「……何を今更。当たり前だろ。お前にここに、俺のそばにいて欲しい。むしろ俺のそばにいろ。……だから」
 クロノスの声もまた、震えていた。
「……だから、お前も俺を必要としてくれよ。――俺のすべてはもう、お前のものなんだから。……お前に初めて会ったあの日から……俺はもう、お前だけのものだよ、フィレア」
 両の耳から入り込んで全身を満たしていくのは、永遠にも似た時間を約束する言葉だった。
 それこそが、父から継承される『契約』そのものに他ならないというのに、フィレアとクロノスは、まだ、形の上でつながることができないでいる。
 ただ一人の娘の身を誰よりも案じていた父が、彼女の行く手に大きな壁となって立ちふさがっている。
 フィレアが来るのを、待っている。
 だから、『彼』に会いに行かなければならない。
 そのために、二人はここまでやってきたのだから。
 ――帰ってきたのだから。
「……父さんのところに、行かなくちゃ」
「そうだ。だからその覚悟を聞いた。……お前が覚えている親父さんとは、まったく違う親父さんの姿を、お前はこれから、目にすることになる」
 先程と同じ言葉を聞いたはずなのに、フィレアの心にのしかかる覚悟は、先程のそれよりもずっと重さを増しているように感じられた。
「……大丈夫。――あたしを誰だと思っているの」
 そしてフィレアはあえて、同じ答えを繰り返した。
「……あのクロイツ・C・ターンゲリの血を引く娘――《黄昏を継ぐ者》フィレア・ターンゲリよ」
 確かな言葉として告げられたフィレアの声に、クロノスは満足げな笑みを浮かべて、彼女の身体を解放した。
 クロノスへと振り返ったフィレアは、涙の跡こそわずかに残っていたが、もう、泣いてはいなかった。
「……クロノス」
 フィレアは呼びかけた。
「――ん? ……どうした」
 傷を負っていたあの時の少年を、フィレアは思い出す。その彼が、今、目の前に、傍らにいる。
 面影はあると言えばあるだろう。だが、目の前にいる青年は、もう、あの時の少年ではない。
「……大きくなったわね」
「……何をいきなり。お前もな、フィレア」
 こんな他愛のない言葉を交わせる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
 流れる時は止まらない。どんなに願っても、過去には戻れない。
 人は、見えない未来へと向かって歩き続けることしかできない。
 道がなくとも、見えなくとも、歩いた先に未来があり、歩いてきた道が過去になるのだ。
「――ありがとう。そばにいてくれて。……ありがとう、出会ってくれて」
 ずっと言いそびれていた『ありがとう』を、やっと直接伝えることができた。
「…………」
 嬉しさか、気恥ずかしさか、様々な感情が綯い交ぜになったらしいクロノスの曖昧な笑みに、どことなく、あの初めて会った日の面影が重なった気がする。
「……俺からも、同じ言葉をそのまま返すよ。……ありがとう、フィレア。――お前に会えて、本当によかった」
「行きましょう、クロノス」
「……おうよ、フィレア」
 部屋を出た後は、もう振り返らなかった。改めて振り返るのは、すべてが終わった後でいい。



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