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終 章  白 の 箱 庭


 洞窟を抜けた先は、一面の花園だった。
 どこまでも優しく、あたたかな光が、さわさわと歌い揺れている。
 花園を埋め尽くす淡い輝きは、この日食の日にだけ咲くことを許される白水晶アイリスの花の群れだった。
「これは……」
「親父さんが遺した、お前に伝えたいこと」
 よく見ると、その間に、似たような形の光を纏わない白い花が顔を覗かせている。
 アイリスではない、アイリスによく似た白く小さな花。
「……光らないアイリス?」
「よく似た別物だ」
 クロノスの声を聞きながら、フィレアはその場にしゃがみ込んで、光を帯びずに咲く花をそっとなでた。
「……王国最高位の魔術師という地位や数々の名誉を捨ててまで、クロイツ・C・ターンゲリという男が探していたのが、その花だったんだ。『白水晶アイリス』によく似た花が、遥か昔、《北の大地》に存在していたという記録があった。絶滅したと言われていたその花を蘇らせることに……親父さんは、残された命と時間のすべてを費やした」
 触れたその手に返されるのは、柔らかな感触。辺りに立ち込めているのは、爽やかな甘い匂い。
「日記に書いてあった花って、これのこと? ……クロノス、あんたがこれ、全部咲かせたの?」
 鳥たちの群れが、静かに舞い降りてくる。その様子を見つめながら、フィレアは──おそらくは青年にしか聞こえないであろう、そんな小さな声で呟いた。
「そういうことだ。まあ、親父さんが遺したのはたった一粒の種だったから、親父さん自身がこれを自分の目で確かめることは、できなかったがな。けど──お前が家を出てから、今までの時間で、やっとここまで増えたんだ。もちろん、アイリスと違って日の光を浴びても枯れることはない」
 何かが胸の奥からこみ上げてくるのを感じて、フィレアは、目元を手の甲で拭う。クロノスはその様子を──彼女の背中を見やりながら、静かに、穏やかに微笑んだ。
「……俺が咲かせたのだって、最初の一粒だけ。後は、精霊たちの意志に任せた。お前と俺と、鳥たちしか今は知らない。だが……きっとそのうち、世界中にこの花が咲く。……親父さんは、それを、お前に確かめて欲しかったんだ」
「じゃあ、こんなところに住んでいたのも……」
「そう、本物のアイリスが咲くからさ。それに……知ってたか?」
「……何を?」
「お前、髪伸ばしたら……お袋さんにそっくりだってこと」

 かつて《黄昏を導く者》と呼ばれた男がいた。
 その男は、たった一輪の花を咲かせるために、与えられるはずだったすべての名誉を捨てて王国を去った。
 愚かと呼ぶ人もいるだろうし、賞賛に値すべきだととる人もいるかもしれない。
 誰がどう思おうかは、フィレアにとってはもう、大した問題ではなかった。
 ただわかったのは、彼は、間違いなく自分を愛していたのだということ。もしかしたら、そう思い込むことでの慰めにしか過ぎないかもしれない。けれども、たとえそうだとしても、構わないとさえ思えた。
 神話の時代は終わった。女神は眠りにつき、人は翼を失った。
 それでも、世界は動き続けている。
 夜明けが訪れ、花が咲き、命が、風が巡り続ける――
 きっと風の精霊が、この種を色々な場所へと運んでくれるだろう。名もなき小さな白い花が、遥か昔に咲いた花と同じ名を、あるいは、まったく別の名を与えられて、やがて再び、世界中で咲くことになるはずだ。
 それは遠い未来の話ではあるけれど、きっと、確かなこと。
「ねえ、あたし、すごいことを思いついたわ」
 フィレアは立ち上がると、まるでいたずらを思いついた子供のような弾んだ声をクロノスへ向けた。
「……何だ?」
 クロノスは目を細め、紡がれるであろう言葉の続きを待つ。
「風や鳥だけじゃない。あたし自身の手で、この花の種を世界中に運ぶの」
 そうして、フィレアは誇らしげに笑った。
 どれだけの種を運べるかなど、想像もつかない。
 一生をかけても、世界中を回りきることなどできないかもしれない。
 それでも、大地に種を根づかせることはできる。
 今、この瞬間、フィレアが己の生きる意味として見出した命題だった。
「そうか、それは……親父さんも、お袋さんも、きっと喜ぶ」
 わずかに息を詰まらせてそれだけを呟くと、不意に、クロノスはフィレアの身体を抱き寄せた。
 もう数度目だが、突然のことにそうそう慣れるものでもなく、フィレアが抗議めいた眼差しを向けながら、青年の腕の中に収まった。
 その反動によるものか、命を運ぶ風がゆるやかに吹き抜けたからか。羽根を休めていた鳥たちが一斉に舞い上がり、花たちが揺れた。
 穏やかな空気の中で、ふと息をつく。
「……父さん……母さん」
 フィレアは白い箱庭を見渡しながら、ぽつりと二人を呼んだ。
 その瞬間、風が、ひときわ強く花を揺らした。
「……っ!?」
「フィレア?」
 身を強張らせたフィレアを不思議そうに呼んだクロノスが、彼女の視線の先を辿って、そこにある風景の変化に気づいたらしい。フィレアを抱き締める腕に、わずかに力が込められる。
「……大丈夫。ここにいる」
 おそらくは傍らにいる青年も、きっと同じだっただろう。その永遠にも似た一瞬、浮かんで消えた光景を目に焼きつけるように、フィレアはじっと、遠くて近い空間を見つめていた。
 風に揺れた花の中に、一瞬だけ浮かんだ姿。寄り添いながらこちらを見つめて微笑む、二人の男と女。
 記憶にあるよりも、ずっと若いようにも見える――それが誰であるかを、フィレアもクロノスも知っていた。
「……さよなら」
 二人がフィレアの名を呼ぶことも、手を差し伸べることもなかったけれど、二人の姿は確かに一瞬だけそこにあって、風に溶けるように消えていった。
 ――そして。
 フィレアが二人へと贈った最後の言葉に応じるように、アイリスの花の群れが、その身に纏う命の光を一斉に手放した。
 箱庭を彩っていた淡く儚い光は、まるで降ってきた星が再び天へ昇ろうとするかのように、文字通り、命が天へ還っていくように――風に舞い上げられて、ゆるやかに空へと消えていった。


 やがて夜が明け、天球の光が再び世界を包み込んだ時、照らし出された世界の姿を、フィレアとクロノスは改めて目にすることになる。
 遠い過去からはるかな未来へと、受け継がれてきた命が息づく世界。
 光に祝福された花たちが、一面に咲きほころぶ小さな世界。

 ――そこは、白の箱庭。

Fin.



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