第 四 章 黄 昏 を 継 ぐ 者5
「―― 正面に向き直ったクロノスが右手を掲げるのとほぼ同時に、フィレアの視界は炎の色彩をとらえていた。 正式に契約を交わしたことにより、クロノスが一度に制御できる魔力の量も膨れ上がったようだった。同じ呪文を用いても、そこに生じる光の量は先程のそれを優に超えている。そして、両手でやっと押さえていた炎が、すでに片手だけで足りている。 「……感動で、言葉も出ないってか？」 一度は正面に向き直ったものの、それに続く答えが沈黙であることを不思議に思ったのか、肩越しに振り返ったクロノスは、幾分か余裕のありそうな笑みと問いかけの眼差しでフィレアを見やった。 彼の言葉のとおり、感動で言葉が出なかったのかもしれない。半ばぼんやりとしていたフィレアは、その言葉で我に返った。 「……あんたの力、そんなに強いとは……思ってなかったから」 「使うべき道があれば、それなりにな。俺たちの力は、護るか、育むか……それくらいしかない」 「育む……？」 「花を咲かせたり、とかな。魔力を集めて、そこから結晶体を作る……っていうのがいい例だろ。いずれにしても……直接的な破壊はできない。だから、防げても反撃はできない……さて、お前の番だ」 唐突に指名されて、フィレアは不意を衝かれたように顔を上げた。クロノスの表情に笑みらしい笑みはなかった。 「親父さんは、自分を超えて欲しいと……最後にそう言った。……叶えてやろうぜ」 「……ばかね。そんな顔をするのは、あたしだけで十分だわ」 これから成すべきことを、フィレアは嫌と言うほどにわかりきっていた。そのための方法も、心得ているつもりだった。 そう、自らの手でただ一人の肉親である父親を、殺さなければならないのだ。超えるとはそういうことだ。それを為し得るだけの力が己自身にあることも、フィレアは悟っていた。皮肉にも、それは他でもない彼――クロイツ・C・ターンゲリという一人の男から受け継がれた力だった。 それでも、どこかに何もかもがうまく収まるような奇跡でも転がってはいないだろうかと、願っている自分がいたのも確かだ。 しかし、奇跡は決して願うだけでは起こらない。今ここで、嫌だと叫んで逃げ出すわけにはいかない。 フィレアは目を閉じた。胸の前で両手を合わせ、大きく吸い込んだ息を、魔力を載せた声と共に吐き出す。 これから贈りつけるのは、一方的な破壊にしか過ぎない餞別だ。 泣くのは、すべてが終わってからでいい。 「……炎よ、尽きることなく燃え上がる炎よ」 思えば父が最初に教えてくれた魔術の言葉は、これだった。魔術師たちの間ではごく一般的に使われている、己の魔力を炎に換えるための最初の言葉だ。これだけでもわずかな、たとえば薪を燃やすための炎を生み出すには十分すぎるほどである。 前方で光と炎が爆ぜた。耳に届いた爆音は、先程までのそれとは桁違いのもの。それは、生きようとする本能がぶつかり合う音だった。 魔力の流れを感じ取っているかのように、青水晶の群れが淡い光を帯びる。風向きが変わった。 「時を渡る紅蓮の風を纏いて舞い上がり、遥かなる黄昏の訪れと共に――」 合わせた両手が開かれる。それぞれの手から飛び出した炎が、空中で一つになり、鳥のような形へと変化する。 フィレアはクロノスの脇を通り抜けて一歩、前に出た。指先をまっすぐに眼前へ――父へと向けて、掲げる。 「彷徨いし者の魂を、浄化せよ――！」 最後の呪文。それはまるで、別れの儀式だった。 鮮明に響いたフィレアの声に従い、炎が鋭い鳴き声を上げて燃え上がる。示されたただ一つの場所に向けて、仮初めの翼を得たそれは一気に集束する。 弾ける音。燃え上がる音。終わりをもたらす破壊の使者は一瞬にして悪魔を――かつて父親だったその人を包み込んだ。 空洞の中が赤く、赤く、黄昏色に染まった。青水晶でさえも、その身に赤い光を抱きながら、ゆるやかに崩れ去る。 終わりを迎えた命を連れて、風が舞った。 「父さん……」 オ オオ オ…… その掠れた呟きが届いたのか否か――燃え上がる炎の中から、最期の咆哮がわき上がった。 遠く、低く、閉ざされた空間を駆け抜けてゆく声。名前を呼ばれたわけでもないのに、名前を呼ばれたような気がして、フィレアは再度、喉の奥に集めた空気のすべてを声に変えて父を呼んだ。 「――おとうさあああん！！」 父の最期の声は、確かに耳に届いた。確かにこの耳で受け止めた。 クロノスの手がそっと肩に触れ、そして、思いごと抱き締めるように背中から両腕が回される。 確かなぬくもりと彼の存在を感じた瞬間、それまで張り詰めていたものがふつりと切れて、溜まっていた涙が一気にあふれ出した。 涙が零れたのは幸いだった。泣けるくらいには父を愛していたのだと、今この時に至って、ようやく実感できたような気がした。 フィレアは歯を食いしばったまま、炎に焼かれて消えていく父の姿を見つめていた。あふれる涙を拭おうともせずに、その姿を目に焼きつけるように、ただじっと、見つめていた。 ――やがて、すべてを焼き尽くした炎もまた虚空に溶けて消え去ると、続く道の先に白い光が見えた。 |