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風の伝説の始まりの話


3


「――君の、望みは……何?」
「……望み?」
 ミーナスは思わず首を傾げてしまった。
 精霊との契約を交わすために来たのだから、望みは何かと問われれば精霊としか答えようがない。しかし――そんな、答えのわかりきっているような問いを、あえて投げかけるようなことがあるだろうか。
「そう、ミーナスの望むもの。何だっていいんだ。参考までに聞いておきたいだけだから」
 一体何の参考にするつもりなのだろうと考えたが、あえて口には出さなかった。表情だけでも十分に伝わるだろうと、心のどこかで思ってしまっていたからかもしれない。
 とは言え、即答できないのも確かだった。正確には、一つに絞りきれないのだ。
 もちろん一つだけとは言われていないから、いくつでも答えていいのだろう。何だっていいと言うからには、彼はただ一つの決まった答えを求めているわけではないということになる――少なくとも、ミーナスはそう悟った。
 父や兄のように、リュインの竜王に仕える騎士になりたい――これはミーナスが初めて剣を手に取ったその日から、影のように共にある夢だ。
 あるいは、特に兄は渋い顔をするかもしれないけれど、幼馴染と共に未来への道を歩んでいくのだって悪くはない。十八になったばかりで家庭に落ち着くのはさすがに早いが、考えようによってはそれも選択肢の一つだ。
 だが――
「……風と一緒に、世界を廻りたい」
 フィアールの眉がぴくりと跳ね上がったような気がする。
 それはミーナスの中に本能のように刻まれていた、夢だった。竜が眠るこの大地――この世界を廻りたい。どれほどの時を費やせば満足できるのか到底想像もつかないけれど、騎士になるのも結婚するのも、それからだって遅くはないだろう。
「それが、ミーナスの望みだね? ……ありがとう。それじゃ、天球の光が消えてしまう前に本題に入ろうか」
 思ったとおり、フィアールはいいとも悪いとも言わずに――とても満足そうに大きく頷いただけだった。
「早速……ミーちゃんに相応しい精霊を、んであげないとね」
 その単語が自分自身を指していると気づくまでに、また軽く瞬き数回分の間を要した。
「……ミーちゃん?」
「ミーナスだからミーちゃん。可愛いでしょう? すぐに片付けるから、ちょっと待っててね」
 ……本当にこの人は賢者なのだろうか。
 今更考えた所でどうにかなるようなものでもないのだが、ミーナスは無意識の内に杞憂を積み重ねていた。もしもこの場に両親や兄がいたならば、フィアールが賢者であるということを確実に証明してくれるのだろうが、彼らがいない以上は、自分自身の思考力と判断力に頼る他はない。
 しかし、ミーナスの想像の中にいた『賢者』は、間違ってもこんな所で洗濯物を干していたりパンを焼いていたり一般人をお茶に誘ったりはしないような――威厳があり、神秘的で、そして人智を超えた気高い存在だった。だから疑わずにはいられないのだ。
 とは言え、蓋を開けてみれば実物は大違いだと――少なくともフィアールに関しては、そう結論付けるしかなかった。彼が自らの身分を詐称した所で、彼にとっての利点は何もないからだ。ならば他の六人はどうなのかと尋ねてみたい衝動にも駆られるが、仮にも『賢者』である青年の手前、それは何とか堪える。
「あの、フィアール……さん、精霊を喚ぶ……って?」
 浮かんだ疑問がそのまま言葉になる。その問いかけが来ることは予想の範疇だったらしく、フィアールは大きく頷いた。
「俺の仕事は世界を見守ることと、君達ウィンディアの風の民の『成人の儀式』のお手伝い。趣味で雑貨とか細工物なんかも作っているけれど、まあそれは置いといて……と」
 抱えていた薪を切り株の側に置き、手際よくその場を整えると、フィアールは手をはたきながらミーナスのいる方へやってきた。
「ミーちゃんもここに来るまでに何となく感じたと思うけど、この森には、たくさんの風の精霊が棲んでいるんだ。で、ミーちゃんが連れて行くことができるのは、その中のたった一人。まあ……ここだけの話、もっと連れて行くこともできるんだけど、取りあえず最初の一人目が肝心だからね。その最初の精霊を、今から俺が喚び出すというわけ。さて、ミーちゃんは見たところ騎士様見習いって感じだね。――剣を、ちょっと貸してくれるかな」
 ミーナスは促されるままに腰の剣を抜き、差し出されたフィアールの手に託す。天球の光を浴びて銀色の光を放つそれをフィアールは満足そうに眺めやると、そっと地面に突き立て――がりがりと何やら紋様のようなものを描き出した。
 一見すると子供の落書きに見えなくもないが、よく見るとヴァンフュールの家に飾られている壁掛けに織り込まれているものとほぼ同一のものだとわかる。流れる風を象徴しているようなそれは、風の民であることを示す証のようなものだ。ミーナスはぼんやりとそんなことを考えながら、フィアールから返された剣を受け取り、鞘に収めた。賢者が地面に描いた即席の絵は、人一人が十分に入れるくらいの大きさだった。
「今から俺が不思議な呪文を言うから、『汝の名は?』って聞いたら、ミーちゃん、大きな声で名前を言って? ああ、あと……ちょっとだけ離れた方がいいかもしれない」
 息を潜めたのも一瞬、風向きがゆるやかに変わる。ミーナスの背中をくすぐるように吹いていた風が、今度は正面から吹きつけてくる。その風に押されるように、ミーナスは数歩、後ろに下がった。
 正確には、フィアールと彼が今さっき地面に刻んだばかりの紋様――その辺りから、風が生まれていた。風は次第に強さを増し、嵐のように吹き荒れる。その中心にいながら、フィアールは平然とした様子で口を開いた。
『七つに別れし創始の同胞、フィアール・トゥルフールの名において命ず。新たなる風に導かれし者よ、我らが前にその姿を現せ。風を纏いし若き戦士に――大いなる時の祝福を』
 どこか透明な響きを持つその言葉はミーナスに理解できるものではなかったが、その言葉、あるいは、彼の声そのものに確かな強さが秘められているのを感じた。
 精霊達を呼び寄せる声と言葉。それは賢者たる者が持つ力であり、人のそれとは本質的に、根本的に違う強さだ。
 閉じられていた瞳が開かれ、菫色の眼差しが真っ直ぐにミーナスへと向けられる。すっと息を吸い込むのは、一瞬。
「風を纏いし若き戦士よ、汝の名は?」
「――ミーナス・クオン!」
 涼やかに響き渡った声が扉を開く鍵となり、描かれた紋様が淡い光を帯びる。それは瞬く間に膨れ上がり、天に届くかと思われるような勢いで真っ直ぐに上空へと突き上げられた。眩しさのあまりミーナスは思わず目を閉じ、更には顔を両腕で庇った。
 光だけではない。風もまた中心から外側に――強く吹き荒れて、ミーナスに襲い掛かる。羽根を切るような鳴き声にも似た音を響かせて、ミーナスの側を通り過ぎていく。先程までは確かに彼女を受け入れてくれていた風達が、今度は一転、彼女をこの場から排除しようとしているかのようだった。
「……大丈夫、恐れないで。ミーちゃんが自分に相応しいかどうか、精霊達が確かめているんだよ」
 フィアールの声は確かに耳に届いたが、頷いている余裕はない。足を広げて僅かに身を屈め、目は閉じたまま――口を真っ直ぐに引き結び、飛ばされてしまいそうになるのを何とか堪えながら、ミーナスはじっと耐え忍んだ。
 だが、まばゆい光も嵐のような風も、収まるのは一瞬だった。光は次第に細くなり、吹き荒れた風は紋様の中へと戻っていく。光と風が収束し、確かな形を成していく。
 やがて、ミーナスがうっすらと目を明けた頃――明らかに人のそれではないその気配は、風の中から現れた。
「この子が、風の精霊?」
 ――風が収まるにつれてミーナスの目に飛び込んできたのは、森の緑とはあからさまに相反する大地の色。
 大地の色をした獣だと、ミーナスは直感的にそう思った。どちらかと言えば、森の緑よりは小麦畑の金色が似合いそうな、そんな風貌だった。
「……はい、風牙。お昼寝中の所悪いんだけど、君にご指名」
「ふうが?」
「そう、風牙。雅な名前でしょ?」
 片膝を突き、うずくまるような姿で現れた精霊は、疑問符を帯びたミーナスの言葉にフィアールが頷く頃には既に立ち上がっていた。ミーナスよりも僅かに背が高い。黄土色の髪に黄金色の瞳、頬に走るいくつかの傷跡、口元に覗く牙に、両手両足の指先を彩る鋭い爪、そして上下に揺れるふさふさの尻尾――耳はもちろん尖っている。
 風牙と呼ばれたその精霊はまじまじとミーナスを見据えてから、ちらりと背後の方に振り返った。その視線の先にいるのは、言うまでもなく――飄々とした笑みを浮かべながら佇んでいるフィアールだ。
「せっかく気分良く寝てたっつうのによ……テメエ、何してくれんだ」
 あからさまな大欠伸や目元を擦る様を見る限り、彼が喚び出される直前まで寝ていたらしいのは明らかだった。精霊族ならともかく、精霊が眠るという概念は今一つ理解し難いが、安眠を妨げられたことで機嫌が悪そうなのは一目瞭然である。
「ふーちゃん、俺は“テメエ”じゃなくてフィアールお兄さん! ……寝起きだからって怒らないの。久々の出番なんだから、もっと格好いい所見せて」
「テメエを“お兄さん”なんて呼べるか、阿呆。……ってか、“ふーちゃん”じゃねえって何度言われりゃ気が済むんだよ。いい加減に男を“ちゃん”づけで呼ぶのはやめろ、気色悪ぃ」
「つれないなあ、ふーちゃん。まあ、それはともかく紹介するよ。こちらがミーナス。風牙をご指名の方。可愛いでしょう? ほら風牙、ミーちゃんに誕生日おめでとうって」
「めでたいのはテメエの頭ン中だっつの」
 大の大人が子供に向かって語りかけているような、そんなフィアールの声に返されたのは、わざとらしい溜め息だった。両の肩を回し身体を解きほぐす傍らで、風牙はミーナスをまじまじと見やり、口の端を吊り上げる。
「……で、お前がミーナスだって? へえ、お前が風を止めたのか。……こっちは平和を満喫してたってのによ、随分なことしてくれるじゃねえか」
 気だるそうな眼差しと溜め息交じりの言葉に口を開きかけたミーナスより早く、口を尖らせたフィアールがその間に割って入る。
「風牙、問題発言。女の子にはもっと優しくしなきゃ駄目だよ」
「間違っちゃいねえだろ。まあ、どのみち誰が来ようが関係ねえ。ガタガタこんがらがった話なんざ理解できねえよ。お前が俺を喚んだ、俺にとってはそれだけで十分だ。――さあ、早く剣を抜け。オレに一撃でもくれてみな。そうすりゃオレはお前のものだ、ミーナス!」
 拳の骨が鳴る音が聞こえた。風牙は既に臨戦態勢だが、ミーナスはというと――心の準備すらまだ整っていない。
「だから女の子にはもっと優しくって言ってるでしょ。第一、そんなに怖い目で見てたら、ミーちゃんも怖がって本気を出せないじゃない」
「いいからテメエは黙ってろっての。てか、これくらいでびびるような奴のお守りなんざ……こっちから願い下げだ」
 目の前で交わされるそんなやり取りに、何故か安堵と親近感を覚える。
 そう言えば、前にもこんなことがあったような気がすると無意識の内に思いかけて、ミーナスは我に返った。
「……え……」
 風牙の眼差しが真っ直ぐにミーナスへと向けられる。ミーナスもまた、その眼差しを正面から受け止めた。それは心の奥にまであっと言う間に届きそうな、鋭さを秘めていた。

(……あたしも、いつまで生きてられるかわかんないからさ。例えあたしがいなくなっても、泣くんじゃないよ。お前、男の子なんだから)
(お前がいなくなるなんて、俺に考えられるかよ。俺を精霊として連れ出したんだ、最後まで責任は取ってもらうからな!)

 記憶の鍵穴に、古く錆びついた鍵が差し込まれたようだった。脳裏に蘇る不鮮明な感覚に、ミーナスは瞬きを繰り返す。

(へえ、お前……名前がないんだ? じゃあ、あたしがつけてあげるよ。――風牙とかどう? 雅な響きでしょ?)
(雅とかわかんねえし。……でも、ま、悪くねえな)

 視線が交わりあったその瞬間、かつてどこかで手放してしまったものを再び見つけた気がした。だが、それは同時に、砂の海に埋もれてしまった宝石の欠片を探しているようでもあった。
「あれ……?」

 覚えている――ミーナスは直感でそう悟った。今さっき初めて逢ったはずなのに、自分は風牙を知っている――
 だが、それは今ではないいつか、ここではないどこかでの出来事――ミーナスが知らないはずの、とても遠い昔の話だ。


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