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そんなことを思うと、風牙の黄金色の瞳の奥で何かとても深いものが揺れたように感じた。まるでミーナスの姿を通して、ここにはいない誰かを見つめている――そんな瞳だ。心臓を鷲掴みにされた気分になって、思わず足を止める。 「何だ、そんなに珍しいか? ……いや、本当にオレが精霊なのかって面してやがんな」 はぐらかすような何気ない問いかけに、ミーナスは息を呑む。答えを探している間に、その答えが風牙の口から飛び出した。 「それに関しては、間違いなくオレは精霊だとしか言えねえよ。あとはお前の目で確かめてみろ、なあ、ミーナス」 獣の姿を彷彿とさせる尾が、大きく左右に揺れた。ミーナスも覚悟を決めて深呼吸をする。初対面の相手といきなり一戦を交えなければならないというこの状況には気が引けるが、ここで逃げ出すわけにもいかない。 ミーナスは腰に帯びた剣の柄をしっかりと握り締め、力を込めて抜き放った。緊張のせいもあるだろうが、両手にずっしりと重みが圧し掛かる。 「剣が重いのは、精霊達が、ミーちゃんに協力してくれているからだよ。大丈夫、怖くない。……受け入れられるね?」 フィアールの囁く声に、ミーナスはなぜだか素直に頷いてしまった。何とか剣を握り締め、支えとなる両足にも力を込める。 風は――彼ら風の民にとっては、生まれる前から共に在ったかけがえのない片割れのようなものなのだ。怖れなど抱けるはずもない。怖くないと心の内に言い聞かせながら、それよりも更に少しばかり風牙との距離を開き改めて剣を握り締める。 今度は重さを感じなかった。それ以前に、初めてこの剣を手に取った時より軽くなったかもしれないとさえ、感じる。使い慣れた木刀に似たような感触は、すぐに手に馴染んだ。 「ミーちゃん、頑張って。大丈夫、風牙は優しいから」 「外野は黙って座ってろ!」 「もう座ってまーす」 「じゃあ黙れ。声を出すな。そのうるさい口を閉じておけ」 既に切り株に腰を下ろして足まで組んでいたフィアールは、風牙の言葉に――おそらくは反論しようと開きかけていた口を両手で塞いだ。唇の端と端を摘むように手を動かし、真ん中の辺りで紐を結ぶような仕草まで加えてみせる。 不覚にも吹き出しそうになって、慌ててミーナスは口を噤んだ。ますます風牙の苛立ちを増長させるばかりではないかと思ったが、幸いにも、彼に思い切り背を向けていた風牙の目にそれが映ることはなかった。 「……好きに暴れてもいいけれど、家は壊さないようにね」 「黙ってろっつったろ。壊されたくなけりゃ、家ごと避難しておくんだな」 「あいにく、俺は繊細なんだ。そこまで力持ちじゃないよ」 「なら、壊されても文句は言うな」 草を踏みつける音が響く。周囲の風がざわめき、そして静まった。風だけでなく、森の木々や鳥までもが、息を潜めて戦いの始まりを見守っているようだった。 ミーナスは声を息に溶かして呑み込んだ。柄を握り締める両の手に、無意識の内に力が篭る。 風牙は真っ直ぐにミーナスを睨み据えながら、わずかに腰を落とした。 ――来る。 「……ゥアアアアアッ!」 その瞬間、低い唸り声が咆哮へと変わり、畳み掛けるような足音と共に獣の影が飛来した。 「――っ!」 白銀の剣と鋭い爪とが重なり合い、鈍い金属音が辺りに木霊する。ミーナスは両腕を駆け抜ける痺れに顔を顰めながら、力任せに風牙を押し返そうとした。その力に従うようにすぐに風牙の体は離れ、先ほど彼が立っていた位置に着地する。 「……やるじゃねぇか」 衝撃の余波を風がどこかへと連れ去るまでの数秒の間を置いて、風牙が口を開いた。尻尾が揺れている。 心の底から沸き上がる歓喜に満ち溢れているような、そんな表情だった。戦いを純粋に楽しもうとしている者の、それ。 風牙は再び腰を落とし、先程と同じように構えた。 「来いよ、ミーナス。お前の力、俺が確かめてやる」 「ミーナス、遠慮することはないよ。風牙は頑丈に出来ているから、ちょっと懲らしめてやるくらいがちょうどいいんだ」 そうは言われても、ミーナスにはどこから攻めればいいのか判断がつかなかった。風牙にはいわゆる“隙”が見当たらず、どこから攻めてもかわされてしまうのが目に見えている。 「どうした? ――その剣、飾りってわけでもねえよな?」 ミーナスの動きが止まったのをいいことに、それまで様子見に近いものだった風牙の行動が積極的な攻めへと転じた。野性の本能の赴くままに襲い来る、二本足の獣――風を切るような感覚に、ミーナスは反射的に後ろへと下がった。たった今まで彼女が立っていたその場所に、深い爪痕が刻まれる。彼の表情を彩っているのは、紛れもない野生の笑みだった。 風牙の攻撃は、その一撃一撃が確かな重さと速さを兼ね備えていた。圧倒的な存在感と力に体が締め付けられるようで、正直、そんな攻撃を防ぐだけで精一杯だった。しかし、それらを完全に防ぎきれていないのは――打ち合いを重ねるごとに着実に増えていく細かな傷を見れば明らかだ。 動きがとても素早く、闇雲に剣を振り回しても何の意味もない。だからと言ってその動きを見極めるほどの時間はミーナスには与えられていなかったし、賭けるものがあるとすれば偶然くらいだ。かえって不利になるとわかっていても、体力が削り取られるだけだとわかっていても、ミーナスは風牙がいると思われる方向に剣を振り続けるしかない。 「……風牙、ミーちゃんは女の子なんだから、顔を傷つけちゃ駄目」 「は、勝負の世界に男も女もあるかよ! 手加減しろとか言うんじゃねえぞ、コイツが本気でやるってのに俺だけ手加減なんざできるかよ!」 「その真っ直ぐな姿勢は認めるけれど……誰もが彼女のように、最初から強いわけじゃないんだよ」 フィアールのその言葉は、まるで警鐘のように響いた。心のどこかが疼くのを感じて、ミーナスは風牙を見やる。 「黙ってろって言っただろ……!」 吐き捨てるように、ただ一言。思った通り、風牙の拳が震えていた。たとえ彼自身の内で理解できていることだとしても、図星をつかれると怒るのはいつものことなのだ。 ――怒るのは、いつものこと。 「何で……?」 あまりにも滑らかな答えを紡ぎ出した己の思考に、ミーナスは戸惑いを覚えずにいられなかった。その呟きがしっかりと耳に届いたのだろう、風牙がその動きを止め、怪訝そうに眉を寄せる。 「ミーちゃん、風牙のこと……わかる?」 「……わかる、気がする」 いつの間にか位置が逆転していた二人の間にやわらかく滑り込むように発せられた声。一人悠々と戦いの行方を見守っているであろうフィアールの気配を背後に感じながら、ミーナスは素直に頷いた。風牙が軽く舌を打つのが聞こえる。 「何せ俺を喚びやがったくらいだからな。お前が、そうなんだろう? ――お前がティアの生まれ変わりなんだろう!?」 ミーナスの瞳に驚きと困惑の色が宿った。『ティア』と聞いて真っ先に思い浮かぶ名は、一つしかない。 「風牙はね……ティア・フォーンと旅をしていた子なんだよ。彼女が死んでから――最初の封印戦争が終わってから、何年も、何千年も経ったけど……その間、ずっとここで彼女を待っていたんだ」 フィアールの口から当たり前のように告げられた答えは、ミーナスが求めていたそれに違いなかった。 「……ティア・フォーンと……?」 ――《自由なる風》が従えた、《金色の獣》――幼い頃、寝物語に聴いた伝承。 ミーナスの目の前に突如現れた神話の中の存在達は、彼女の想像をはるかに超えていた。 かつて『第一次封印戦争』と呼ばれる戦いがあった。それは、このフィルタリアを無に帰そうとした《 ディラリア大陸を中心に戦火は世界中へと広がり、多くの街や村が焼かれ、人が命を落とした。フィリア・ラーラの翼に当たる北の大地は濃い霧に閉ざされ、人が足を踏み入れることは困難になった。 現在も塞がっていない深い傷を世界に残したその戦いを鎮めたのは、ティア・フォーンという名の一人の戦士であると――史実ではそう伝えられている。 彼女は風の民の生まれではなかったが、《自由なる風》と呼ばれていた。風の精霊を従えていたことや、何より戦場を駆ける彼女の姿を風に例えたことから、そう呼ばれるに至ったらしい。その存在は長い時を経てもなお神聖視されており、神として列せられてこそいないものの、《希望の西風》ユーライア・レーアの妹や娘であるという説を信じている者も少なくはない。 「アイツは俺の目の前で死んだ。俺は、アイツを護れなかった」 風牙が吐き捨てるように呟いた。呼び起こした、遥か遠い昔の記憶――そのことに嫌悪にも近い気持ちを抱いているかのようだった。 嫌悪を覚えているのは――彼女を護ることができなかった、自分自身に対してなのかもしれない。 術者と契約を交わした精霊は、術者の死によって解放される。精霊魔術の心得こそないものの、それくらいはミーナスも知っている。 そして、ここは風の還る場所であり、風の精霊の還る場所だ。風牙が風の精霊という枠の中に収まっている以上、いくら彼がティア・フォーンと契約を交わしたとしても例外はない。 封印戦争の終結は、史実の通り、彼女の死と共に訪れた――ティア・フォーンと死に別れた後、今に至るまでの――果てしなく永遠に近いような時間を、風牙はここで独りで過ごしていたのだ。 「……なあ、ミーナス。お前は、アイツを超えられるか? アイツを超えて、俺をここから連れ出すことができるか?」 ミーナスは剣を正面に構え、じっと風牙を見やった。たった十歩にも満たない距離。風牙は特に構えようともせず、ただ立ち尽くしているようにも見える。 (……強いんだわ) 考えてみれば、風牙はあの《 (私が……本当に彼女の生まれ変わりであるというのなら……) すぐには信じられないけれど、それでも、本当にティア・フォーンの生まれ変わりであると言うのなら――風牙が言うように、望んでいるように、彼女に追い付き、そしてその背を超えていかなければならない。 きっと『同じ』ではだめなのだ。同じだったなら、おそらくは彼女の二の舞になる。だからこそ、超えなければならないのだ。 彼は、いや、彼らは――果たして自分を認めてくれるだろうか。彼女を超える者として、それに相応しい者として。 そんなことを考える必要はなかった。勝てばいい、認めさせればいい。それだけのことだ。 ――そのために、自分は今日、ここに来たのだから。 ミーナスは駆け出した。その先には、身構える風牙の姿がある。次の一撃に残った力をすべて傾けるつもりでいる。風牙にもそれは伝わっただろう。満足げな笑みに――変わったように見えた。 次で勝負が決まる――はずだ。
(ティア――死ぬな。ティアが死んだら、俺は)
「……一緒に行こうよ。私が、連れて行ってあげるから」
(――待ってるに決まってんだろ。お前と一緒にいられるなら、神にだって祈ってやるさ、だから――)
「――風牙」 名前を呼ばれて、風牙は一瞬動きを止めた。揺らぐ瞳の中に彼女の姿が映る。ミーナスは右足を一歩踏み出し、隙の生じた脇腹めがけて剣を薙ぎ払った。 勝負が決まるのは、一瞬。 叩き込まれた一撃に声にならない声をあげてくず折れたその体を、ミーナスは剣を手放して両腕で抱き止めた。 精霊なのに、不思議だと思う。人のそれと同じような、確かな重さを感じる。 「……ずっと、待ってたんだ。待たせちゃったね。……ごめんね」 「何で、お前が謝るんだよ……」 すぐに離れようとしたらしいが、体に力が入らないようだった。ミーナスの腕の中で泣くのを堪えるかのように強く歯を噛み締めて、風牙は首を左右に振る。 「……勝負、あったね」 二人の動きを静観していたフィアールが、満足そうに呟いて立ち上がった。 |