第四章 再会7
オズウェルとシアはその場を動けずにいた。 見たこともない大きな船が、島にやってきた。最初に船から下りてきた誰かに、走って近づいたティルトが殴られて気を失ったのも見えたし、その後何人もの人間がこの島に降り立ったのを見た。さすがに何を話していたのかまでは、聞こえなかったが。 「どうしよう、オズ」 シアが不安そうな声を投げかけてくる。あれはどこからどう見てもよそ者で敵だ。だからどうするべきだろうかと、オズウェルも必死に考えていた。もしかしたら今頃、他の皆はあいつらに酷い目に遭わされているのかもしれないと、そう思っても身体が動いてくれない。 だってあんなにたくさんの人間に、精霊と一緒にいる皆が勝てなかったら――精霊のいない自分が勝てるはずなどないではないか。 その時、がさり、と、草を踏みしめるような足音が届いた。それは乱暴に、焦るように、けれど確実にこちらへ近づいて来る。 「……誰か、来る」 シアが肩を震わせた。オズウェルはその身体を強く抱き寄せるようにして、息を潜める。 「オズウェルくん! シアちゃん!」 聞こえた声に二人はそろって大きく目を瞬かせた。 「……よかった、二人とも無事……だったね」 よほど全力で走ってきたのだろう、ヘルメスはその場に膝をつき、肩で大きく息をしている。 「どうしたんですか? 先生、そんなに慌てて……それに、さっきから鳥たちが騒がしい。何か、あったんですか?」 「里が大変なことになっているんだよ。帝国から、侵略者……よそ者が来ている」 掠れた声が地面へと零れ落ちた。 「……どう、して? ……よそ者が、来るなんて」 「彼らを手引きした者がいたんだ……カーディルくん――二人とも、彼のことは知っているね?」 オズウェルとシアは互いに顔を見合わせ、そして、幾許かの躊躇いを交えながら深く頷いた。ティルトが何の警戒も抱かずに近づける相手。そう考えれば納得が行く。 「……でも、どうして、カーディル兄さんが?」 カーディルはティルトだけでなく、オズウェルやシアにとっても兄のような存在だった。彼のようになりたいと思ったのは、何もティルトだけではない。彼の優しさ、そして内に秘められた強さは、オズウェルにとっても憧れの的であったのだ。 そんなカーディルの裏切りを、実際に確かめていない以上はそう簡単に信じられるものではない。しかし、ヘルメスの眼差しは決して嘘をついていたりはしなかった。 嘘でないとわかるくらいには、ヘルメスという男を知っているつもりだった。 現に、侵略者たちは――カーディルは、《時渡りの民》を――ティルトを傷つけている。 「カーディルくんのことについては、私にもわからない。けれど、これだけは言える。彼らは……精霊を、一人残らず外に――帝国に連れていくつもりなんだ。この意味がわかるかい? ――彼らは精霊を……十五年前と同じように、他の国との戦争に利用しようとしているんだよ」 十五年前――オズウェルの両親が命を落とすきっかけとなった戦い。かけがえのない仲間たちの命を奪った者たちが、再びこの島へやってきたというのだ。 「どうして……わたしたちは、ただ、ずっとこのまま平和に暮らしていたい。それだけなんです……なのに」 「シアちゃんの気持ちもよくわかる。でも、彼らはそうは思ってくれない。オズウェルくん、今、この島を、皆を助けるには……きみと、きみの精霊が必要なんだよ」 ヘルメスの切迫したような声に、オズウェルは咄嗟に口を開いていた。 「そんなこと言われたって、ぼくには戦う力なんてない。精霊だって孵っていないというのに……っ! だいたい、何でぼくじゃなきゃいけないんだ。里に行けば、いくらでも精霊はいるじゃないか!」 懐から取り出した《卵》を地面に叩きつけてしまいたい衝動に駆られながら、ヘルメスの眼前に突きつけるように掲げる。 脈打つ鼓動はオズウェルの手のひらにはっきりと伝わるけれど、精霊そのものが動いているようには感じられない。 ヘルメスは、オズウェルの《卵》を目にしても、常の好奇心に満ちたような表情を浮かべたりはせず、ただ肩を落とし、力なく首を左右に振った。 「駄目なんだよ、もう、みんな捕えられてしまっている。彼らは鉄の檻を用意していた。精霊の力では開けられない、頑丈な物だ」 「そんな……! パパやママも? ベルメールおばあさまも? ……ティルト、ティルトも?」 シアの悲痛な声に、ヘルメスは痛みを堪えるように顔を顰め、きつく眉を寄せたまま俯いた。ヘルメスの口からは、大丈夫だという言葉は返ってこなかった。 ――大丈夫ではないということだ。 「先生。この世界は、本当に、ぼくたちが……《時渡りの民》であるぼくたちと精霊が、護るべき世界なんですか?」 ヘルメスをじっと見つめながら、ある意味場違いな言葉を、オズウェルはそのまま口にした。一切の緊張も緊迫感もどこかに押し込めたような口調だったが、眼差しはとても真剣なものだった。 「オズウェルくん……」 「だって、ぼくたちが護るべき人たちが、ぼくたちの世界を壊しに来ているということですよね? ぼくたちが護るために用いようとしている力を、彼らは奪いに来たということですよね? ……ぼくたちの力を、人殺しのために使おうとしているということですよね……?」 ヘルメスの口から、期待していた言葉が出てくることはなかった。オズウェルはきつく拳を握り締める。きっと、そうなのだろう。彼らの目的は、オズウェルの言う通りなのだろう。 体の芯から痛みが広がっていくようだった。その原因は嫌なほどにわかっているのに、取り除くための答えが見つけられない。あるのは疑問ばかりだ。 「先生、ぼくたちはいったい、何を護るためにこの世界に生まれてきたんですか?」 風が吹いた。すべてを攫って行きそうな強い風が一瞬だけ辺りを吹き抜けた。常より穏やかであたたかな風が、ひどく冷たく感じられた。もちろん、凍えるとまではいかないが、冬の風を知らないオズウェルにとっては、そうであってもおかしくない冷たさかもしれなかった。 空の青さも次第に色を失い、岸壁に打ち付ける波も高くなってきている。何かが起こる、その前兆のようだった。世界樹だけではなく、空も海も、風までもが何かを――これから起こることになるであろう、何かを怖れているのかもしれなかった。 「……逃げているようで、本当に悪いと思う。でも、その答えはオズウェルくんにしか見つけられないよ。私が用意できる答えは、私にとっての答えでしかない」 「そう、ですよね……わかってる、――わかってるんです。でも、ぼくには」 弱々しい声音とは裏腹に、その表情に落胆の色はなかった。ひどく落ち着いていたと言っても過言ではない。 オズウェルの手にそっとあたたかい物が触れた。シアの空色の瞳が不安そうに揺れている。オズウェルは小さく息をついて、笑った。大丈夫と言う代わりに、その小さな手を、わずかに力を込めて握り返した。 「オズウェルくん、何かを護りたいと思う気持ちだって、戦うための立派な理由だよ。戦うための力、傷つけるための力……きみが要らないと、そう思っている力は、同時に、護るための力にもなりうるんだ」 オズウェルは不意に、手の中に握り締めていた《卵》の重みとぬくもりを感じた。それはずっとずっと昔から共にあったものなのに、今、初めてそのことに気づいたような錯覚すらあった。 ヘルメスは真っ直ぐにオズウェルの瞳を見つめてくる。オズウェルは無意識のうちに目を逸らそうとしたが――射すくめられてしまったかのように体ごとその動きを止めた。息をのみ、口を真横に引き結ぶ。両手をぐっと握り締めながら、ヘルメスの眼差しをしっかりと見つめ返した。今度は視線を逸らさなかった。 ヘルメスは小さく息をついた。その瞳はすぐに、オズウェルが普段から知っている柔らかな光を取り戻した。 「だいじょうぶ、オズウェルくん。怖くないよ」 漠然と抱いていたのは、そのほとんどが不安だった。 このまま平和に、何事もなく日々が過ぎていって欲しいと願う気持ち。そして、こんな平和な島よりも、ずっとずっと広い世界に憧れる気持ち。 安寧を望んでも変化を望んでも、その先に待ち構えているのは不安だった。 変わらないことへの不安。変わることへの不安。どちらの不安もそう簡単に受け入れられるものではなく、だからこそ、悩む日々が続いた。 その答えを見出すことこそが大人になることなのかもしれないと、オズウェルは思った。 自分自身の手で切り開いていくしかない未来。オズウェルの道を知っているのはオズウェルだけで、他の誰もその道がどこにあるのか知らない。一歩踏み出してしまえばあとは歩いていくだけなのに、その一歩こそが――超えていかなければならない、不安そのものなのだ。 答えは、驚くほどに身近にあった。影のようにずっと、寄り添っていた。 ――《卵》が動いたような、震えたような感覚が、手のひらから全身に伝わった。 「オズ……!」 オズウェルはそっと両手で包み込むように、《卵》を抱きしめる。 ――そして。 |