第 一 章 過 去 か ら の 使 者7
「……本当に、ふざけた人だわ。こんなもの。……あんたも体のいい『おつかいがかり』にされたものね」 手だけでなく、声まで震えていた。形にならない感情が、行き場を求めて迷っている風でもあった。 この感情につけるべき名を、フィレアは与えてやることができなかった。 今更、忘れかけた頃にやってきて、帰ってこいと言う。 逃げろと言って、かつて住んでいた家を追い出したのは、他でもないこの手紙の主──フィレアにとってはたった一人の肉親であり父親、その人であるのに。 それでも、父親からの直筆の手紙を破り捨てて燃やしてしまうなど、できるはずもなかった。無論、そんなつもりもなかったが。 「あんたは、これ、読まなかったの?」 封蝋はまだ生きていた。だから、この問いかけ自体が意味のないものだということもわかっていた。だが、どうしても問いかけずにはいられなかった。 青年は穏やかに笑っている。もしかしたら、読まずとも大まかな内容は知っていたのかもしれない。 けれどそのことは、今のフィレアにとっては大きな問題ではなかった。 「よかったわね、あんたの名前、やっぱり父さんがまだ持ってるんですってよ。……父は生きている。だから、あたしに契約を継承することはできないし、あんたは名前を取り戻せない」 便箋をできるだけ丁寧に畳んで、封筒の中に収める。もう封はできないが、する必要もない。 「処刑されたはずの人が生きているなんておかしな話だけど、……どのみち、行かなきゃいけないってことなんでしょう。あんたのためにも、あたしのためにも。……ひどい人だわ。本当に、最後まで、ひどい人──」 自嘲気味に呟くフィレアを、青年は何も言わずにただじっと見つめていた。フィレアは小さく息をついて、彼へと向き直る。 「わかったわ。行きましょう。……でも」 改めて考えてみると、真っ先に浮上する問題に行き着いた。 フィレアと青年が今いる『 そしてこれから、二人が向かう場所は、『ここ』から遥か北にある── 「戻るのはいいけど、ここからどれくらいの距離があると思ってるの、あそこまで」 フィレアは軽いめまいや頭痛に似たものを覚えて軽く額を押さえた。そうしながらも、その頭の中で世界の大まかな地図を描き出す。 まず、港に向かい、海を渡らなければならない。 そして海を渡ったら、今度は川を上らなければならない。 どんなに急いでも一週間はかかる距離だ。 「……俺に聞くなよ。それに、さっきも言ったが、お前がこんなに遠くにいるなんて、思ってもいなかったんだよ」 そう、元はと言えばこんなところにいる自分が悪いと、言ってしまえばそれまでなのだが── 「仕方なくないでしょう。こういう大事なことは先に言ってちょうだい。あたしだってあんたみたいなのが探しに来るなんて知らなかったんだから」 何となく悔しいので、そう返しておくことにする。 しかし、これではまるで子供の喧嘩だということにすぐに気づけないほど、フィレアは子供ではないつもりだった。しかも、向こうはおそらく、喧嘩とすら思っていない。 「……まあ、いいわ。あんたがあたしを探しに来てくれたことは、感謝してる。……思ったんだけど」 「なんだ?」 「あのお屋敷、まだちゃんと残ってるの?」 フィレアの記憶の中では、深い森の奥の奥にその屋敷はあったはずだ。 十年近くも前の古い記憶だが、それだけは間違いない。 だが、仮にも、《黄昏を告ぐ者》とまで称された大罪人が住んでいたような場所だ。 王国の人間たちはおろか、通りすがりの賊などが立ち入って、踏み荒らしていても何らおかしくはない。 しかし、青年の言葉は悠然としていた。 「それに関しては心配するな。あんな深い森の奥まで無闇に立ち入るやつはそうそういないさ。それに腕利きの『番人』もいることだしな」 「番人? 誰よ……」 訝しげな視線を送ったその先で、青年が自分を指差し満面の笑みを浮かべている。 「……あんたが? あそこに? 住んでるの?」 「まあ、そういうことだな。ちゃんと掃除だってやってる。二階の空き部屋を俺の部屋にしちまったけど、問題はなかったよな? お前の部屋だってちゃんと残してあるんだぜ」 フィレアはしばらく胡乱げな眼差しを青年へと注いでいたが、やがて小さくため息をつき、自分から目を逸らした。 ここであれこれ考えて余計なことに心を砕くよりも、実際に行って自分の目で確かめるのが一番だという結論に、ようやく行き着いたからだ。 青年は何を思ったか、気安い調子で続けてくる。 「大丈夫、俺も一緒に行くんだし、怖くねえだろ。別に襲うとか襲わねえとかそんな問題でもねえし。あ、一人じゃ寂しくて寝れないってんなら添い寝くらいは――」 「あんたの部屋は隣よ。明日の朝すぐに出るから寝坊しないようにね」 取り付く島も与えずに言い捨て、まっすぐに扉を指差す。 「容赦ねえなあ」 青年も気を悪くするような素振りさえ見せず、ひょうひょうと肩を竦めてベッドから降りた。 「さっきも言ったでしょう。初対面の男と同じ部屋で寝れるほど、世間知らずじゃないの。……言っておくけど、あんたのこと、全部信用したわけじゃないんだからね」 「俺はお前のこと、信じてるけどな」 「……そりゃあ、あんたは、あたしのことを知ってるからそう言えるんでしょうけど。あたしは、あんたのことを全然知らないわ」 「……本当にそうか?」 澄んだ空気のような瞳が、フィレアの姿をとらえる。 フィレアは開きかけた口を噤んで息を呑み、怪訝そうに眉を寄せた。 「あたし、あんたのことを知ってるの?」 「さあな」 「……からかってるの?」 「人の記憶ってのは、ひどく曖昧で儚くも尊いものさ。気になるなら、自分の胸に聞いてみるといいかもな。──おやすみ」 「待って」 一歩踏み出し、フィレアは青年を呼び止めた。 「あんたのこと、何て呼べばいいの? いつまでもあんたじゃあ、色々と不便でしょう」 「なんなら、お前が考えてくれよ。未来のご主人様」 フィレアは考え込むように眉を寄せ、じっと青年の目を見つめた。青年もまた、先程までと同じようにまっすぐにフィレアの目を見つめ返してくる。 「……クロノス」 ふと心の中に浮かんだ名を、フィレアはそのまま口にする。 「クロノスな。……オーケイ。──よろしくな、フィレア」 クロノスと呼ばれた青年はどことなく満足げに口の端を吊り上げると、今度こそフィレアの部屋を後にした。 |