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第 四 章  黄 昏 を 継 ぐ 者


2

 空は変わらず濃い闇色に覆われていたが、吹き抜けてゆく風も、その風が木々の梢を揺らす音も、とても心地のよいものだった。
 周囲に広がる光景は昼間であれば緑豊かな森林を絵に描いたようなものだっただろう。しかし、今は見える景色のすべてが夜色に染まっていて、そこに緑があるようには見えなかった。
 軽く腹ごしらえを済ませた後、クロノスがフィレアを連れていったのは、裏庭からひっそりと続いていた獣道の先にある、洞窟の前だった。辺りには森の木々しかなく、切り立った崖のふもとにぽっかりと開いた小さな穴は、さながら、異世界へと繋がる入り口のようにも思えた。
 一度足を踏み入れたら、そう簡単には引き返せないだろう。もしかしたら、帰ってくることさえ叶わないかもしれない。
 それでも、生きて戻らなければならない。
「しかも……嫌な風が吹いてる。……魔王でもいるっていうの?」
「お前なら、感じられるだろうと思った」
 ここまで連れてきたからには、中に入れということだろう。そう判断したフィレアは、クロノスの答えを待たずに一歩、踏み出した。生暖かい風に混ざる匂い、その中にあるいくつもの異なる殺気を、感じ取らなかったわけではないだろうに。
「魔王ならまだ可愛げがあると思うがな、残念、神だか女神だかは、残酷な悪戯ってのが好きらしい。……お前が想像しているとおりの、誰かさんだよ。この先で、お前を待っているのは」
 肩を竦め、曖昧ながらもはっきりとした答えを返しながら、クロノスもまた、フィレアについて洞窟内に足を踏み入れた。
 その表情は、先程までの彼のそれと比べれば幾分か重々しいものだったが、先を行くフィレアがそれに気づく様子はなかった。
 クロノスが、何かを探すように視線をめぐらせたその瞬間――
「――尽きることなく燃え上がる炎よ!」
 前方で鋭い叫び声が響き、暗闇の中に紅い炎が灯った。
「さっそくお出ましか」
 クロノスの目に映るのは、命を包み込む、絶対的な破壊の熱だった。フィレアの手から踊り出た紅い炎が、あっと言う間に黒い獣たちを焼き尽くした。
「……不意打ちなんて聞いてないわよ。大体、洞窟の中にこんなのがいるなんて……」
 肩越しに振り返ったフィレアの、抗議めいた眼差しを、クロノスは軽く受け流す。
「ま、こいつらにとっては、居心地がいい場所なんだろうよ……ほら、突っ立ってっと、喰われちまうぞ――っと!」
「炎よ!」
 フィレアの反応は素早かった。前方から飛来したいくつもの影に向かい、躊躇うことなく炎を繰り出す。
 紅蓮の色に包まれた獣たちは、断末魔の声すら上げられぬまま灰燼と化した。
 クロノスはというと、魔術の類を使う気配はなく、携えてきた一振りの剣でフィレアの炎をかわした獣を的確に斬り伏せている。
「……さすがだな」
「あたしを誰だと思ってるの。と言うか、てっきりあんたも魔術を使うと思ってたんだけど」
 剣についた血を払い、クロノスは肩を竦めてみせる。
「お前との契約が成立してないから、制限がかかってるようなもんなんだ。……それに、もともと、俺の力は攻撃には向いてない」
「そういうこと。それにしても……ここ、青水晶がたくさんあるのね」
 感嘆の声を漏らしながら、フィレアは軽く辺りを見回す。
 炎が消えると、一転、薄暗い洞窟内は青の色彩に彩られた。内部に満ちているのは、仄かに青い光。その内に僅かな魔力を抱く、青水晶の輝きである。
 青水晶は純粋な魔力の結晶であり、特にこのような洞窟、あるいは光があまり差さない場所でよく見られる、魔術の補助具や媒介として一般的に用いられている自然の産物だ。
「おかげさまで、俺もやりやすい。……来るぞ?」
 クロノスの低い呟きに、我に返る。前方から聞こえてくるのは、黒い獣たちの背筋が寒くなりそうな唸り声だった。
 本能のままに標的を食らう、肉食獣のそれである。闇の中に浮かび上がる紅玉にも似た色合いの瞳は、正気のものではない。混沌の意思に支配されている、魔物の証だ。
 まっすぐに続く大きな道と、枝わかれしたいくつもの細い道。唸り声は細い道を辿り、段々と増えているように感じられた。
「ねえ、目的地まではどれくらい?」
 フィレアの右手に、紅い炎が宿る。クロノスはにやりと、悪戯めいた笑みを口の端に湛えた。
「正解の道は、ここからずっとまっすぐだ。細いのは全部、やつらの寝床に繋がってる。――走るか?」
「当然。火傷しないように、注意しなさいよっ! ――尽きることなく燃え上がる炎よ!」
 まっすぐに前方へと向けて、掲げた右手。叫び声と共に躍り出た炎が獣たちに向かって襲いかかる。フィレアは走り出した。クロノスもまた、それに続く。
 そう、過去を振り返っても、もうそこには戻れない。できるのは、ただひたすらに、前を目指して進むことだけ。

「――紅き炎の囁きよ!」
 次々に現れる獣たちに軽く舌を打ち、フィレアはその手を洞窟の壁――青水晶の上へと滑らせた。青い輝きが火花のように弾けたその瞬間、壁面から現れた紅い炎が、すれ違い様に黒い獣を呑み込んだ。
 フィレアの生み出す炎は、一度捕らえた獲物を決して逃さない。荒れ狂う大気の中から生じたその熱は、確実に行く手を遮る存在を包み込み、嘗め尽くす。
 閉ざされた空間の中、予想以上の音量を伴って響き渡った断末魔の声に、フィレアは少々顔を顰める。説得が通じる相手ではないが、好きで殺しているわけではない。
 魔物たちの気配が消えたのを確認して、ようやく、二人は足を止めた。軽く肩で息をしながら、走ってきた道の方を振り返る。思った以上に長い距離だったのか、入り口の光はすでに遠く小さく、今にも消えようとしていた。
 そして、視線は再び前方へ。おそらくは外が近い場所にあるのだろう――幾筋もの日差しが差し込む、広い空間が見えた。細い通路は、あとわずかな距離で終わりを迎える。
「……どうする? 一気に行くか?」
 不意に立ち止まり、クロノスが聞いてきた。
 短時間で魔術を連発しすぎたせいか、フィレアの息が軽く上がっていることに気づいたのだろう。
「……時間はまだある?」
「まだ昼過ぎくらいだろう。過ぎていたとしても夕方だ」
 青い壁面に背を預け、フィレアは深呼吸を繰り返す。壁を覆う青水晶の魔力が、触れた場所から、空気から、フィレアの中に流れ込んでいく。
「この先に、いるぞ」
 広い空間へと目を向ける。ここからではまだ遠くそのすべてを視界に収めることはできないが、場を満たす空気が変わりつつあるのは、肌で感じ取れた。
 流れてくるのは、先程の魔物たちのそれとは比べ物にならない殺気だった。
「……行きましょう」
 殺気がこちらに向いたということは、この先にいる『何か』が、こちらの存在に気づいたということに他ならない。のんびりしている暇など、もうなかった。
 フィレアは身を起こすと、表情を引き締め、一気に駆け出した。クロノスがその後に続く。
「わかるか? ――フィレア。お前に本当に見せたいものは、親父さんを乗り越えた、その先にある」
「……本当に見せたいもの……? ――っ!」
 怪訝そうな眼差しが振り返るより先にとらえたのは、突如として虚空に出現した紅の色だった。
 膨大な熱量をその身に纏った、それは――
「――盾よアリーラ!」
 クロノスは襲い来る炎とフィレアの間に立ちはだかり、その口から魔力を織り交ぜた言葉を紡いだ。巨大な炎を引き裂くように、青白い閃光が迸る。
「走れ、フィレア!」
 炎の力が一瞬だけ弱まり、二人は一気に通路を駆け抜けた。



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