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第 四 章  黄 昏 を 継 ぐ 者


3

 通路の向こうは空洞になっていた。ざっと見渡しただけでも屋敷の面積より広いだろう。天井までも高さがあり、青水晶の魔力の光が、壁面を淡い輝きで埋め尽くしていた。
 ――そして、そこに、『彼』がいた。
「……っ!」
 二人の目の前に姿を現したのは、全身が赤く爛れた、異形の『魔物』だった。
 金色に光る瞳、頭上に生えた漆黒の角、背に生えた蝙蝠のそれに似た巨大な翼。口元には白い牙が覗いている。身の丈は遠目に見ても、クロノスやフィレアを優に超えていた。
 神話や御伽噺に出てくるような悪魔は、おおよそあのような姿をしているのだろう。そのあまりにも異様な姿に、フィレアは言葉を失い、立ち竦んだまま息を呑む。ごくりというその音まで、耳に届いたような気がした。
 悪魔は二人の姿を認めると、再び攻撃をしかけようとしているのか、低い唸り声を上げ始める。
 フィレアを庇うような体勢で、クロノスは悪魔に向かって手を掲げた。白い光を腕に宿らせながら、遠慮がちに口を開く。
「……あれが、……かつて、お前の父親――クロイツ・C・ターンゲリだった存在だ」
 耳元で告げられた現実に、思考はすぐに追いついてこない。――そこにいたのは、どう見ても人間の形をしているものではなかった。
「……冗談。寝言は寝て言って。父もあたしも人間よ? あんな化け物――」
「寝言で済むならとっくにそうしてる。こんな回りくどいやりかたなんかしねえよ」
 最初に耳にした魔物の群れのそれよりも、背筋が寒く――否、凍るほどの唸り声だった。炎の熱を帯びた吐息と、輝く金色の瞳。そして紅に彩られた鱗状の皮膚。
『魔物』が覚束ない手つきで掲げた両腕は、まっすぐにこちらへと向けられていた。
「グオオオオオオオオッ!」
 ――そして、咆哮。
「地を奔る戦車の轟きを!」
 フィレアは一歩前に踏み出し、両の手のひらを地に勢いよく叩きつけた。壁のように盛り上がった地面が、量を増した炎を幾分か遮るが、それでもすべては防げない。
「――白き花、闇に咲けシル・レ・サ・クラィア!」
 クロノスの声が高らかに響き、二人の視界は白く輝く光に覆われた。
 フィレアが作り上げた大地の壁を越えてきた赤い炎と白い光が、真正面からぶつかり合う。
「……こんな森の奥だが、空からならこの屋敷を見つけることも簡単だったんだ。――お前は森の外にいる。なら、親父さんはどうなったんだ? って思って、俺はすぐに家の中に入った。……もちろん、生きている人間の気配はなかったが、一戦やりあったような跡があちこちに残ってた。壁の焦げ跡とかな。……それでも、誰かいやしないかと、探しているうちに……気づいたんだ」
 炎の勢いは、収まる気配を見せない。クロノスの額に、脂汗が滲んだ。
「鳥肌が立つなんてもんじゃないくらいの、魔力が集まっていることに。……それを辿って着いた先が、ここだ」
 そして、クロノスは『彼』に出会った。

「親父さんは、混沌の意思を植えつけられていたんだ。……わかるか?」
「……混沌の……意思を……?」
「そう、さっき話しただろう? 《北の大地》の人間たちが魔物と化したのは、混沌の意思があふれたからだって。……どういう手を使ったかは俺もわからない。だが、親父さんは人間の手によって、混沌の意思を植えつけられた。魔物にされてたんだ。……親父さんはぎりぎりまで耐えていたようだが、もう、限界だった」

 クロノスが目にした彼は、すでに人間の気配から遠く離れつつあった。
 それは、明らかに世の理に反する存在として位置づけられるような生命だった。
 それでも、人間としてほんの一握りの意識を残したクロイツは、クロノスの姿を見るなり、自分が召喚した存在であることを悟った。
「彼女か、あるいはきみの命が尽きるまで……どうか、彼女を護ってほしい。――私の、娘なんだ」
 クロイツの最初の一言は、『契約』を要するものだった。この時すでに、クロイツは、自分がこれからどうなるのかを、痛いほどに理解していたのだろう。
 それでもなおクロイツは、父としてたった一人の娘であるフィレアの身を案じていた。
 おそらくは、――最後まで。

「親父さんは、どちらにしても殺される運命にあったんだそうだ」
「……何ですって?」
「従ったとしても、野放しにできないほどの強い力はいずれ国にとっては脅威になる。逆らえばそのまま、国王の命に逆らった罪になる。皮肉なもんだとは思わないか?」
「……だって、あの人は、この国を救った英雄だったんでしょう!? ……どうして、どうしてそんな人が殺されなきゃいけないのよ……!?」
 戦の場においての父の活躍を、フィレアは何も知らない。後に残された事実から、推測するしかない。
 父が率いていた魔術師団の一つが倒した敵は、全体の四割にも上ると言われていた。その事から、父が英雄の称号を与えられたのも頷ける。
 父は英雄だった。国を護り、救った英雄だった。それなのに、自分が護り、救った祖国から疎まれるというのは、クロノスの言うとおり、何と皮肉なことであろう。
 今一つ現実味を帯びてこない言葉。だからこそ冗談だと言って欲しい。望んだ答えはしかし、決して返ってはこなかった。
「……首を刎ねる代わりに、親父さんを実験台にしたんだ。国王は、最初からそのつもりでいた。混沌の意思を、より強い者に植えつけたらどうなるか――っ!」
 黄昏を導く者、偉大な英雄、王国最高位の魔術師――処刑という言葉など到底似合わないような肩書きに添えられていたのは、あまりにも残酷な結末だった。
「ガアアアアアアアアッ――!」
 思考を泳がせる暇はなかった。耳をつんざくような魔物の咆哮が響き、再び紅蓮の炎が襲いかかってくる。



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