第 四 章 黄 昏 を 継 ぐ 者4
大地が造り上げた壁の耐久力は、さほど大きいわけでもなかった。崩れ去るのに長い時間はかからず、紅蓮の炎と白い光が、また正面からぶつかり合う。その間に生じているはずの膨大な熱量を感じることはなかった。おそらくはクロノスの力が、炎だけでなく熱をも相殺しているのだろう。 「――たとえば、だ」 視線は眼前へと向けたまま、クロノスは言葉を続けた。 「……お前の親父さんの強さを見込んだ王が、その力を使って、戦争に勝っただけじゃ飽き足らず、そのまま他国に攻め入ろうとする計画を思いついたとしたら? ――それを何らかの形で知ってしまった親父さんが、逃げるように王国を去ったとしたら? ……逃げられるかもしれないことを見越して、親父さんの身体に、あらかじめ混沌の意思を仕込んであったとしたら……?」 それでもなお拒むなら、殺してしまえと言えば済む。時の王に逆らう力を持つ者などいない。それだけの話だ。逆らえば国中が敵に回る。自国においては英雄でも、他国においては悪魔の使者かもしれないのだ。逃げられる場所など、どこにもない。 「……無茶苦茶な話じゃない。何、それ……」 「確かに無茶苦茶だ。だが……あり得ない話じゃねえだろ? 親父さんは、それだけの力を持っていた。そして、その力は間違いなく、お前にも受け継がれている」 超えなければならない存在。超えなければならない背中。今の彼は、決してこちらに背を向けることはしないだろう。 それでも、その背を超えてゆかなければ、未来はない。 「……一つ聞かせて。父は……もう、元に戻れないのよね? 死ぬまで、あのままなのよね?」 「戻せるものなら当の昔に戻してる。方法があるなら、俺が命をかけても探し出してやるさ。お前が……一番よくわかってんだろ?」 震える拳を押さえつけるように握り締めながら、フィレアは奥歯を噛み締めた。死んだと思っていた父親が目の前にいるというのに、抱き締めることも抱き締めてもらうこともできない。 生きるか、死ぬか。殺すか殺されるか。再会がもたらす結末は、一つしか選べなかった。 「――名前は、思い出せた?」 「……ああ、おかげさまでな。――これで、お前に契約を継承できる……」 クロノスの口が小さく動いた。紡がれた『名』はフィレアにしか聞き取れないほど小さなものだったが、それで十分だった。 「これで、俺を縛ることができるのは……お前だけだ。そして、お前の言葉がなければ、俺はすべての力を出せない。……お前を、護れない」 契約によってその力を縛り、あるいは解放する。契約の対象となる者は、主となる術者に従わなければならない。 「あんたが望むなら。あたしは、これからあんたの自由を奪うわ。あんたは、それでいいのね? あたしが死ぬまで、あるいは、あんたが死ぬまで――これは継続される。……最後にもう一度聞くわ。後悔はしない?」 「言っただろう。俺にはお前しかいないんだって。――この契約そのものが、お前が言う俺の自由だ。これ以上、拒める理由はあるか?」 熱量と大きさが増した炎に向けて、クロノスは更に両手を突き出した。それに伴い、クロノスの両手から発せられる白い光も増えたが、そのぶん、彼の顔は苦痛に歪む。少ない量ではあるが、火の粉が白い壁を越えて飛んできている。限界が近いのは傍目に見ても明らかだった。 「――頼む、フィレア。ただ一言でいい、俺を縛る言葉をくれ」 縋るようなその眼差しに、フィレアは息を飲み込み、頷いた。 「……イェル・ユーフォリア」 それが、クロノスの持つ本当の名だった。 「あたしを護ると言うのなら……死ぬまであたしを護りなさい――クロノス」 フィレアはベルトに括りつけてあった一振りの短剣を抜き放つと、その刃に左の人差し指を滑らせた。細い指に一筋の線。そこからわずかに湧き出した鮮血を、クロノスの口元へと押し付ける。クロノスは一瞬、吐き出そうとした息をも呑み込むような間を置いたものの、それを舐め取った。フィレアはそのまま、まだ血の止まらない指で自身の右耳に触れる。 「フィレア・ターンゲリの名において――我が白銀の剣となり、我が金色の盾となれ」 そこにあるのは――金の石。わけられた血は二人を結びつけるためのもの―― 「赤き盟約の元に、汝、クロノス・ユーフォリアの力我が物とせん。汝、星を抱く者よ。その身に与えし我が血を抱き、汝が力、解き放て!」 紡がれた言葉が虚空に散った瞬間、クロノスの内から膨れ上がった銀色の光が弾けた。この広い空間からもあふれてしまいそうな光に、フィレアは両の目を閉じ、瞼を覆った。 痛みを覚えるような眩しさではない。むしろ、心が休まるような、あるいは穏やかさを覚えるような――そんな、光だった。 この光を覚えていると、フィレアは思った。忘れられるはずもない、それは遠い昔に出会ったはずの、ずっと探していた輝きだった。 焼き尽くすことしかできない紅蓮の炎は一瞬にしてその熱ごと空間に溶けて消え去り、光が治まるのと同時に、その場に束の間の静寂が訪れた。 時間が止まったとさえ感じられる一瞬。淡く輝く青水晶も、天井の隙間から差し込む細い光も、言うべき言葉を探してでもいるかのように口を真横に引き結んでいた。 「……っ、……あ……」 たとえばこの光が浄化のそれであったのなら、父にかけられた呪いが解けやしないだろうかと、場違いなことをも何となく考えてしまう。静寂の中に落とされたのが、零れた息に織り交ぜられた間の抜けたような呟きであったのもきっとそのせいだ。 そんな夢みたいな話が思考の隅に追いやられるのもすぐのことで、目を開ければ銀色の大きな翼越しに、かつて父と呼んでいた赤い悪魔が佇んでいるのが見えた。 喉の奥から響く唸り声は威嚇のそれだろうか。それとも、次の攻撃に備えて力を蓄えているのか。 そう、先にフィレアの目に映ったのは、大きな銀色の、例えば天使が持つそれを思い起こさせる翼だった。 |