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 もう何年も前になるだろう。数えてみれば片手で足りるが、そんなことを考えてしまうくらいには昔の話になる。
 あの日は、この辺りにしては珍しく雪が降っていた。だからという訳でもないけれど、あの日のことは良く覚えている。
「――行くのか」
「やっぱり最後に会うのはあんただったか」
「俺を誰だと思ってる。お前さんの唯一の親友かもしれんぞ」
「最後まで世話をかけた。すまないと思っている」
「何、貸しにしておくさ。気が向いたら返しにこい。それにしても寒いな……くれぐれも風邪は引くなよ」
「その言葉、そっくり返しておこう。寒がりの代名詞であるあんたには辛いだろう、この風は」

 あの日は、ウェイブ=クラウドがこの国を捨てた日だ。
 レオナルドはハイゼルセイド王国と《深緑の庭》に保管されていた彼にまつわる記録のすべてを抹消し(これがレオナルドの言う所の貸しだ)、彼はハイゼルセイド王国《蒼天騎士団》団長からただの一個人のウェイブ=クラウドとなったはずだった。
 ――記録上は。

 記録になくとも、人の心には鮮やかに残るものがある。
 一旦国を出れば、後ろ盾など何一つない。自分の力で何もかもを手に入れ、切り抜けて行かなければならない。

 剣の腕だけでなく頭も切れる――ウェイブ=クラウドは天才と称されるに相応しい人物だと、レオナルドは今も思っている。
 ハイゼルセイド王国が隣国スフィルツェンドを陥落させた通称《サリアの谷の戦い》において、細く狭い地の利を生かしたった一人で敵陣に乗り込み、敵将にして国王ロズベルトの首を取った男こそ、他でもないウェイブ=クラウドだった。
 スフィルツェンドをハイゼルセイド王国の支配下に置いた後も彼は陣頭指揮を取り、上げられた反乱の狼煙を次々に掻き消して行った。
 国王フォルカールはウェイブ=クラウドの功績を称え、莫大な報奨金を彼に与えようとしたが――彼は頑なにそれを辞退し、そして逃げるように王国を去った。その力が他国に利用されることを恐れたフォルカールは彼に与えられるはずだった報奨金をそのまま懸賞金に変えようとしたが、それも間もなく彼が死したことにより白紙となった。

 以後その足取りは誰にも掴めないまま、ただ月日だけが歌うように流れた。





 鉛を詰めた雪玉のような沈黙が、レオナルドは特に苦手だった。侵入者たる眼前の男の『意図していない』計略だと――決め付けるのは容易いが、それが事実であるとも限らない。
 ともかくもこのような場合において、大概先に口を開くのはレオナルドの方なので、当人にしてみれば全く以て面白くないことこの上ないのである。
「今頃になってのこのこと、どの面下げてやって来た? ……よくもまあ来れたものだな」
「入り口の鍵が開いていた。だから入っていいものだとばかり思ってな」
 内心をありありと代弁している――そんな憤然たる面持ちで言い放ったレオナルドに対し、ウェイブは涼しい顔をして首を傾げる。
「風の悪戯というわけか、運が良かったようだな。巷じゃお前さん、《蒼穹に煌く緋色の漣》とか言われているらしいぞ。どんな笑い話だ」
「貸し一つか、藪から棒に何だ」
「まだ返してもらっていないのが二つあるがな」
「俺の記憶になければ無効だろう」
「お前が忘れようと俺が覚えているから問題ない。だが、ここで言うのは憚られる。どこに精霊の耳があるかわからん」
 途切れることなく飛び交った言葉の後、口を揃えて吐いた息は溜め息そのもの。見事なまでに息が合っているとしか言いようがなく、クロードは自分が一人別の世界に取り残されてしまったような錯覚に陥りながら、目の前で繰り広げられている舌戦の観客になっていた。
「……もう一度聞く。レヴィーナはどこにいる?」
「まるで俺が知っているような口振りだな。――俺が素直に口を開けると思うか、少しは俺の立場も考慮しろ。あともう少し遠慮しろ。今じゃお前さんはただの部外者で侵入者なんだ。仲良く駄弁っている所を見られでもしたら俺の首も飛ぶ」
 ウェイブは剣の柄に手を添えながら、低い声で囁いた。いつ斬りかかってこようとおかしくない相手を前にして、レオナルドは機嫌の悪さをそのまま仏頂面に変え、言い放つ。
「こっちも急いでいてな、そこまで考える余裕はなかった。それに……《深緑の庭》一の野次馬ではなかったかな、お前は」
「情報に精通していると言え。及第点はやれん」
「どちらでも同じだろう」
「俺のこだわりがお前にはわからん。それだけのことさ」
 レオナルドの顔がふいとそっぽを向く。ウェイブが楽しげに眉を上げたのが、やはり面白くないらしい。
(博士と口喧嘩をして、対等に戦える人がいるなんて……)
 対等どころかウェイブのほうが優位に立っているのではないか――その時クロードが考えていたことは、思い切り場違いだと言っても過言ではなかった。
「第一、何で真っ先に俺の所に来るんだ。厄介事ばかり引き連れてくるのは何年経っても相変わらずか」
「そんな運命など期待したくはないだろう? ……これに覚えはないか」
 単刀直入と言わんばかりにウェイブの指先が弾いた耳飾りに、レオナルドはああ、と、思い出したように頷いた。淡い水色の宝石の耳飾り。懐を探ればすぐに同じ物が出てくる。
「レヴィーナに持たせておいた物だ。精霊ディーネの尻尾を入れてある。その気配を辿ってきたら、あんたがいたというわけだ」
「期待に応えられなくて悪かった。確かにこれは――俺が彼女から預かった物だ。俺としても、彼女の存在が内部の連中に感づかれてしまうのは避けたかったからな」
「……どういうつもりで」
「得体の知れん連中から、彼女を保護していたつもりだ。お前さんが素直に信じてくれるとは思わんが」
 魔術に長けているわけでもないレオナルドにも、この宝石が有する魔力が並大抵のものでないことは感じ取れた。ただでさえ神経質な連中の集まる場所、混ざり込んだ異物のようなこの純粋な魔力を察知する者も少なくはないだろうと、レオナルドは長年培ってきた経験に基づく勘をそんな結論に導いたのである。
「仮に彼女が《黎明の羽》の持ち主ならば、その話はあっと言う間に広まるだろう。《希望の西風ユーライア・レーア》の囁きよりも早く、だ。つまり《黎明の羽》というのは、ここにいる研究者達にとってはそれくらいの価値があるということだ。わかるか、ウェイブ=クラウド。俺もこれで食べている身だ。上層部には逆らえん」
 ウェイブが一歩踏み出し、レオナルドの胸倉を掴み上げる。レオナルドは動じる様子もなく、ただじっと睨みつけてくる瑠璃色の眼差しを挑むように見返した。
「――レヴィーナに、何をした」
「博士……!」
 思わず声を上げたクロードを、しかし、レオナルドは片手で制する。
「何もしていない。危害を加えたつもりはない。したことと言えばこれを預かったくらいだ。……彼女を連れ帰ったことは、まだ上には報告していない」
「そんなことができるとは思えない」
「抜け道の一つや二つ、確保しているさ。何年ここにいると思ってる。黒い腹の探り合いなど日常茶飯事だ」
「あんたの首が飛ぶかもしれないんだろう。仮にも、あんたはどっかの所長じゃないか」
「だからこそさ。お前さんが来るだろうとも思っていたからな。札はある限り使っておくに越したことはない」
「万に一つの可能性に賭けていたか。あんたらしくない」
 そこまで言って、半ば呆れたような表情になりながらウェイブは手を離した。大袈裟なまでの溜め息を付け加えるのも忘れていない。
「俺も夢や希望を信じたい時だってある。騎士ナイトを気取りたい時もごくたまにな」
 レオナルドは乱れた襟元を直し、何事もなかったかのような顔を取り繕いながら呟いた。心なしか遠くを見やっていた眼差しは、けれど眼前の侵入者たる青年に戻された瞬間に、僅かに歪められていた。
「……聞こうか、ウェイブ=クラウド。殺されるかもしれないとわかっていて、お前さんは何故ここに来た」
「彼女を連れて帰るためだ。それ以上の理由が必要か?」
 ウェイブの言葉は的を射るよりも簡潔で明確だった。だからこそ――レオナルドも首を縦に振るしかない。
「ふむ、まあそう言うだろうとは思ったさ。それなら、ウェイブ=クラウド、お前さんにとってあの娘は何だ。命を懸けるほどの存在か。情が移っただけだというのなら、彼女の居場所を教えるわけにはいかん。お前さんを見殺しにはできん」
「――あんたと同じだ。あんたが俺を見殺しにできないように、俺もレヴィーナを見殺しにはできない」
「器用な生き方ができんのも相変わらずか」
「お互い様だ」
「ならばたった一人を生かす為に、その他大勢を殺すつもりか、ウェイブ=クラウド」
 レオナルドの声は磨き上げられた刃のような鋭さを帯びて、ウェイブの喉元に突き付けられる。ウェイブはわずかに見開いた目を、レオナルドに向けることができずにぎこちなく逸らした。声にならないまま飲み込まれた答えは、その瞳の動きを見るだけで十分すぎるほどにレオナルドに伝わった。
「まさか“ここ”に来て、誰も斬らずに帰れるなどと呑気に考えていたわけでもないだろう。殺したくないから道を開けろなどという詭弁が罷り通るならこの世に武器は存在しない。ましてや――彼女を取り戻したいと考えるなら、尚更。ここの人間達の強さを知らぬわけでもなかろう……持っていけ」
 レオナルドは不機嫌さをそのまま混ぜ合わせたような声で言いながら、懐を探り取り出した鍵をウェイブに向かって放り投げた。その一連の動作はウェイブにとっては予想外の上を行くもので、傾けた視線に滲む躊躇いと戸惑いを隠しきれなかったことを自覚していた。レオナルドの声が考える間すら与えようとせず、耳に届く。
「過去は過去だ。なかったものになどできん。それは誰よりもお前さんが知っているはずだ。《蒼穹に煌く緋色の漣》――結構だ。数多の闇を屠った光を、後世の者はそう残したかったのかもしれん。けれどお前さんは逃げ出した。殺した人々の命は、一人で抱えるには重すぎたからだ。違うか?」
「……違わない。俺にはあんたの言葉を覆す答えなど用意できない。結局これだけの時間を費やしても、答えは見つからなかった」
「逃げたところで何も変わらん。十分に思い知っただろう。お前がエルクの元へ送りつけた人々は、お前一人の力では決して戻りはしない。ルヌラストも目覚めの時を知らない。だから世界は動き続けるしかない。ウェイブ、お前さんは――自らエルクの腕に飛び込む為に、ここに来たのか。償いのつもりか? ――償いになどならんと、お前さん自身が一番知っているだろう」
 いくら悔いた所で時は巻き戻らない。それを知る者は多いようで案外少ないのかもしれない。レオナルドが考えていたのはそんなことだった。
 おそらく、時を司るという神ルヌラストにさえも、その両手から零れていった砂をすべてかき集めて拾い上げることは難しいのだろう。なぜなら、砂は限りある物ではなく、次から次へと溢れて零れ落ちていくからだ。
 この世界という器に砂が満ちるのはいつのことだろう。それは誰も知らない。だから考えるべきはそんなことではなく、今をどう生きるかなのだ。
 レオナルドはいつかウェイブに言ってやろうと思っていたことを改めて頭の中で練り直したが、口をついて出た言葉はまったく別のものと言っても過言ではなかった。
「俺は《深緑の庭》一の野次馬かもしれないが――それ以前に慌て者でな。鍵を落としてもそれに気付かない可能性のほうが高いという話もあるかもしれない。いいか、お前さんはここに侵入し、廊下に落ちていたその鍵を拾った。部屋の番号は書いてある通り、西風の瞳――西館二階の最奥だ。部屋の主は留守。だが、客人が一人いる。ウェイブ。お前さんがここに来たのも事実なら、この俺があろうことか転んだ弾みに自分の部屋の鍵を落としてしまったことも事実だ。それを都合よく、お前さんが見つけることも」
「つまり……すべて偶然で片付けろということか」
 偶然にしてはできすぎている。言われなくともわかるだろう。気紛れが代名詞の一つである《希望の西風ユーライア・レーア》も、これほどまでに積み重ねられた偶然には頭を抱えてしまうかもしれない。
 だが、絶対にないとは言い切れない。偶然が積み重なった結果が、いくつもの可能性を練り上げた紐のようなものと考えることが許されるならば。
「拾った鍵を届けようと部屋に向かうかもしれない。それでいいのか?」
「好きにしろ。鍵を拾ったのが誰であろうとも、持ち主に届けなければならないという義務はない。もちろん、届けようと思おうがそれは自由だ。そうだろう?」
 レオナルドの含みを帯びた笑みに、ウェイブもまた、笑みを浮かべて踵を返した。その足音が遠ざかり、聞こえなくなるまでその背中を見つめてから、レオナルドは、数日分の疲れを一つにしたような盛大な溜め息を吐き出した。
「博士、すみません……」
 それまで後ろで事の成り行きを(口を挟む暇も与えられずに)見守っていたクロードが、まるで死刑台にでも向かう囚人のようなか細い声をレオナルドの背中に投げかける。
「どうした、クロード。精霊が耳を欹てていたか?」
「……いえ……その……」
 レオナルドは、この青年が答えを言えずに視線を彷徨わせる瞬間が果たして何を意味しているのかを知っていた。だが、さすがに今回ばかりはそうでないと信じたくて、すぐにその真意を問い返すことができなかった。
「……かけなかったのか?」
 どこを、とまでは言えなかった。言わずともわかっていた。わかりたくはなかったが。
「……かけません、でした」
 途端に全身の力が抜けてしまったらしいレオナルドが、がくりと項垂れてその場にしゃがみ込む。
 空いている部屋の鍵を渡すことに何か意味があるのかと問われたら、中から鍵を掛けて密会でもするつもりなんだろうとしか言えない。
「クロード、お前さんはそろそろ自分のやることの半分が裏目に出るのを悟ったほうがいい。ああ、何てことをしてくれたんだ――お前さんは俺の一世一代の名演技に水をぶっかけた」
「す、すみません、申し訳ありません、博士」
「いや、謝られたところでどうしようもない――戻るぞ、クロード。あの好奇心旺盛な姫君が、開いた扉の向こうを見てじっとしていられるとは思えない」

 そうして、レオナルドとクロードが遅れて走り出した頃。
 差し込んだ鍵が回らないことに違和感を覚えたウェイブは、見た目ばかりは荘厳な造りのその扉の取っ手を力任せに引いた。
「――レヴィーナ」
 呼びかけた部屋の中は、蛻の殻と言うに相応しい状態で。
 人の気配もなければ――無論、応える声もなかった。

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