どれくらい走っただろうか、レヴィーナを探してウェイブは地下へ続く階段を降りていた。 地上にはいなかった。上の階もおそらく同じだ。窓から空が見えていたのなら、彼女は下に降りる道を探す。 レヴィーナは振り返るのが嫌いだということを、ウェイブは知っている。 彼女が振り向いた先にいるのはいつでも彼女を捕らえ牢屋に入れるためにやってくる役人達だったからだ。 だから彼女はいつも真っ直ぐに前を向いている。ウェイブはそれを知っている。 知っていたとして、彼女がすぐに見つかるわけでもない。ウェイブは立ち止まって深々と溜め息を吐き出した。人一人を探すには、この《庭》は広すぎる。 こういう時にこそ人はレーナ・ティーラの導きを求めるのだろうか。 ウェイブは無機質な天井を見上げた。姿を求めたところで星は見えない。 ここからでは、空は遠い。 「……誰もいない……?」 追っ手の気配が先程からずっと途絶えていることに気づいて、ウェイブは訝しげに辺りを見渡した。確かに避けるように走ってきたはずだが、こうもいないと逆に何かあるのではないかと勘繰らずにはいられない。 精霊の宿る、片方だけのイヤリングを指で探る。こちらへと魔力が向けられている気配もない。 それは寧ろ好都合ではあるのだけれど、そこまで呑気に事を構える余裕もなかった。 罠か、あるいは―― 「ただの侵入者よりも《黎明の羽》のほうが優先と、そういうことか」 ウェイブは吐き捨てるように呟いた。それはウェイブにとってはどうでもいいことだ。どんな力を持っていようと、彼女がレヴィーナ=フローレントであることに変わりはない。 それなのに彼女の力は誰かに必要とされているらしい。それも、ウェイブが必要としていない力だ。それが癪だと言ったらただの子供の我が侭なのだが、そうかもしれないと気づいてウェイブは小さく息をついた。 彼女の存在は思った以上に、心を安定させてくれているらしい。 だろうなと、今更のように胸中で苦笑する。必要だから、手放したくなかった。 必要だから、こんなにも必死で探している。 ――それは何故? 「……馬鹿げている」 考えたところで答えなど、わかりきっているようでわからない。そんな曖昧なものだ。 それに一人で出すような答えでもない。自分だけが納得できればそれでいいというものでもない。 そんなある意味つまらない考えに興じている内に、耳元の精霊が何かの気配を告げてきた。 何かなど、考えるまでもない。ここには魔物はいないのだから、間違いなく人間のものだ。ウェイブは辺りに視線を巡らせながら、耳に意識を集中させた。 入り組んだ通路の向こうから、いくつかの足音がこちらへと近づいて来ていた。その音から逃れるように身を翻し、足早に通路を辿る。やり過ごせる場所があればそれで良かったのだが、規則正しく並ぶ扉の中から鍵の開いている部屋をいちいち探している暇はなかった。 足音は一定の距離を保つように移動しているようだった。つまりは気づかれているということだ。 追いつくことが目的ではないのだろうか。どこかに追い込もうとしているのか。 ――それもいい。ウェイブは走り出した。足音も走って追いかけてくると精霊が告げる。 走っている内に、正面に大きな扉が見えてきた。まるでここを開けろと誘っているようにも見える、巨大な扉だった。 扉の前で立ち止まる。取っ手を掴み、引き寄せる。 扉は空いていた。 罠だという予感は確信に変わりつつあったが、ウェイブは躊躇うことなく扉を開けると、わずかな隙間から身を滑り込ませる。 「――レヴィーナ!」 人間が押し込まれた入れ物がオブジェのように並ぶ広い部屋。 そこに、捜し求めた女神の姿があった。 どこをどう走ってきたのかレヴィーナは覚えていない。 ただ、ずっと真っ直ぐ――真っ直ぐ走ってきた。それだけだった。 気づいた時には広いこの部屋にいた。ここで何が起こっているのかも、彼女には理解できなかった。 広い部屋だ。広さだけなら彼女が知っているどの部屋よりも広い。例えばウェイブと暮らしていたあの家と比べたら、この部屋のほうが何倍も広い。 その広い空間に、何かの入れ物が詰め込まれているかのように並んでいた。ガラスのケースに見えるが、人間がそのまま入りそうな大きさをしていて―― ――事実、そのケースの中には人間が入れられていた。ガラスケースの数だけ、人間が入っていた。十人、二十人くらいはいたかもしれない。男もいれば女もいた。入れ物は何かの液体で満たされ、中に入れられた人間達は皆揃って両膝を抱えて丸まりながら、静かに、目を閉じていた。眠っているように見えた。 生きているのか死んでいるのかもわからなかったが、動いているようには見えなかった。 もしかしたら自分だけでなくウェイブもこの中に入れられてしまうのだろうかと、考えただけでそれは悪夢のようだった。 「――レヴィーナ!」 だからウェイブの声が聞こえた時、レヴィーナはそれが現実だと理解するより先に夢だと思っていた。 「……だめ!」 こんな所にいてはいけない。つかまってしまったらあんな風になってしまう。混乱した思考で誰よりも会いたかった人の姿を両の目に映し出した時、レヴィーナの口が咄嗟に呟いたのはそんな一言だった。ガラスケースに囲まれて立ち竦んでいたら、足音が近づいてきて探していたその人が目の前にいた。 「駄目じゃない。……心配した」 抱き締められて、ぬくもりが蘇る。溢れる涙が止まらなくなり、肩を震わせる。 「だって、ウェイブ……つ、かまったら、こんな」 「捕まらないから大丈夫だ。――帰ろう」 その瞬間、鈴のような軽やかな音が、まるで雨が降るように鳴り響いた。 ガラスケースに満たされていた液体が急速に下方に吸い込まれて行く。ウェイブとレヴィーナは顔を見合わせ、手を取り合って扉の方へと踵を返す。 ケースの中の人間達が一斉に目を開けて立ち上がった。一糸纏わぬその姿はそれだけで何か異質な雰囲気を感じさせるものだったが、その瞳に生気と呼べるような光が全く宿っていないことに、ウェイブは訝しげに眉を顰めた。何よりも肌の色が、死者のそれだ。だが、彼らは動いている。 ガラスの扉が開き、『人間』達が次々に外へ出てくる。何かを見ているようで、何も映していない眼差しが、真っ直ぐに生きている二人へと向けられた。 「……何だ……?」 ウェイブとレヴィーナが見ている前で、その変化は唐突に起こった。 「……オ、……オオオオオオッ!」 獣のそれに似た、咆哮。ある者は背に翼を生やし、またある者は鋭い爪を両手両足のすべての指から生やした。赤黒く染まった皮膚はそのまま塗り固められたかのように肉体を形成し―― 獣のような姿に変化した者もいれば、悪魔のような姿に変わった者もいた。どれもウェイブやレヴィーナの身の丈を優に越えていた。いずれにしても彼らは皆『人間』と呼べるものではなくなり、その場に、どす黒い鉛のような殺気が満ちた。 「……あ……っ!」 レヴィーナが両手で口を塞いでその場にくず折れ、胃の中の物を吐き出した。ウェイブはそんな彼女を守るように膝をつき、庇うように腕を回し背を擦る。 「魔物、なのか……?」 異形――そうとしか言いようがなかった。どれもウェイブが今までに見たことのない姿形をしていて、それを獣と呼んでいいのかさえ、彼にはわからなかった。 『魔物』と、そう呼んだ者達の瞳がぎらぎらと鈍い光を放った。緩く突き出された右腕の先から、迸る炎が放たれる。 それはまるで性質の悪い喜劇のようだった。時間の流れが緩やかになる錯覚。レヴィーナと再会してからの一連の出来事すべてが、あまりにも想像の範疇を超えていた。 「――《 時の流れを引き戻す、静かな、けれど確かな力を持つ言葉がウェイブの耳に届いた。 レオナルドの手に握られた銀の錫杖から放たれた光が、二人の頭上から籠のように広がって、炎を掻き消したのだ。 「……助けてくれと頼んだ覚えはないが」 礼の代わりに口をついて出るのは憎まれ口。 「今ここで死なれたら、貸したものが戻ってこないからな」 レオナルドの目は真っ直ぐに魔物達へと向けられている。ウェイブもそれに倣った。 「ここから生きて出られたら帳消しにはならないか?」 ウェイブは立ち上がり、白銀の剣を抜いた。 「負けるとわかっている賭けにこの俺が乗るはずもなかろう」 「言ってくれるな」 レオナルドは、どこか満足そうに笑っていた。 「だからお前は生きろ、ウェイブ=クラウド」 「フェル、ならば『あれ』は、何だ」 ウェイブは真っ直ぐに前を見ていた。隣で、レオナルドが緩く溜め息をつく。 「……噂程度には聞いているかもしれないが。これは《深緑の庭》の中でも最大の機密事項でな、上層部しか知らん、実験の結果――《黄昏を導く者》……クロイツ・C・ターンゲリに科せられた刑と同じものを受けた、死刑囚達だ」 聞き覚えのある名前だった。この国と関わった者ならば誰もが知っている英雄の名だった。最後は魔物に取り付かれて死んだと風の噂に聞いた。レオナルドの声はどこまでも淡々としていて、だからこそ、ウェイブはそれが事実なのだと理解した。 「……ここでは、『あれ』を 寧ろ魔物ですらないのではないかと、ウェイブはそう続けようとしたが飲み込んだ。 「正確に言うなら……人間だった者達だ。混沌の意思を、植えつけたのさ。……人の命をカディットの駒のように扱う王もこの世界にはいる」 レオナルドの声から、一瞬だけ感情が消える。 「あんたは始めからすべてわかっていたようだが」 「一個人が逆らったところで、首を刎ねられて終わりだ。だからこれは、俺にとっても賭けだった」 ウェイブは訝しげに眉を潜めた。偶然にしてはできすぎているとも言えるだろうこの筋書きを、レオナルドは『賭け』だと言った。 「賭け? レヴィーナと俺が出会うことも、彼女がここに来ることも、俺がここに戻ってくることも、すべてあんたは賭けていたのか?」 「偶然が三つ重なれば、俺の中では必然だ。最近、とみに思うようになった……すべては起こるべくして起こるのかもしれないと」 「ならばこのくだらない実験とやらも、あんたは必然だったと言うのか」 《深緑の庭》の上層部が長い年月と心血を注いだこの実験をくだらないと言い切ったウェイブに、レオナルドは微かな笑み交じりの吐息を零す。口元が皮肉げに歪んだ。 「人は混沌の意思に容易く飲み込まれる。……第一次封印戦争を引き起こしたのもまた、人であったと、史実はそう伝えている。隠すこともできなかったのは、事実だったからだ。皮肉なものだとは思わないか、ウェイブ=クラウド。これもまた、混沌の意思が導いたことなのかもしれない」 「――抗えるものか。その導きにすら気づけないまま、世界は動いている。そうではないのか」 「少なくとも、俺の仕事の範疇ではないな。俺には風の声は聴こえない」 レオナルドが作り上げた魔術の壁が、その力を失いつつあった。魔物達もその瞬間を狙っていたかのように、一斉に力を溜め始めるのが見えた。 「世界は何も変わらない。だが、《深緑の庭》は変わる。それでいい。これは、外に出すべきものじゃない。……人の目に触れさせるべきものじゃない。俺はお前さんにもう一つ、要らぬ罪を被せることになる。すまないな」 「その罪をもなかったことにしてしまうのがあんたじゃないのか」 事も無げに言い放つウェイブに、レオナルドは肩を竦めた。 「相変わらず無茶を言う。俺にもできることとできないことがあるんだぞ」 「そこまで考えて動くのがあんたという人だと思っている。買い被りすぎか?」 「――グオオオオオウウウオオオオッ!」 無駄話は終わりだと言わんばかりに、再び、魔物達の咆哮が炎と化して襲い掛かってきた。レオナルドは錫状を翳して魔術の盾を作り上げ、ウェイブはそこから一人抜け出して剣を振るった。 一匹目の魔物の首が落とされ、切り替えされた刃が二匹目の魔物の脇腹を裂いた。ごとりと鈍い音を立てて転がった首――元は人間だったものの、それ――を見せまいと、レオナルドがレヴィーナの目を覆う。 瞬く間に二匹が倒れ、残された魔物達もウェイブの力を侮っていたことに気づいたようだった。低い唸り声を上げながら、濁った赤い瞳で睨みつけてくる。 生きる命を持つ者を羨むかのように。 あるいはその命を食らい尽くそうかと言わんばかりに。 感情は感じられないのに、生きようとする本能だけは表情のように表れている、人の興味と好奇心の成れの果て。 このような生き方など望んでいなかっただろうと、ウェイブは思考を巡らせた。 もちろん、どこで混沌の意思が彼らの行く道に入り込んだのかなど知りようもないし、知った所で元に戻す術など見出せるわけではない。レオナルドが自分をここに招き寄せたのが何よりの証拠だ。 『ああなって』しまった以上、こちらが採るべき手段はただ一つだ。 ウェイブは床を蹴った。三匹目の首を落とそうとして――その硬い皮膚に食い込んだ刃が鈍い鳴き声を上げる。 「――っ!」 その隙を、敵が見逃すはずはなかった。ウェイブの動きが止まったその一瞬に、叩き込まれる拳があった。 腹の底からこみ上げてくる嘔吐感。それを頭が理解するより先に、魔物の手にはあまりにも小さな人間の身体は呆気なく飛ばされ、床に転がった。 「――ウェイブ!」 レヴィーナはレオナルドの腕を解いて駆け出していた。からん、と、一拍遅れて、ウェイブの持っていた剣が乾いた音を立てる。 「レ、ヴィ……く……」 来るなと、そう言いたいのに、言葉が出ない。触れたぬくもりに場違いな安堵を感じている場合ではないというのに。 本能で動いている魔物達が、仲間――と思っているかどうかも怪しいが――を斬り捨てた男よりもはるかに弱そうな少女を標的に切り替えるのは、明白だった。酸でも浴びて爛れたような、そんな身体を引き摺りながら、先程ウェイブを殴り飛ばした魔物が近づいてくる。 「逃げろ……!」 「やだっ! やだ、やだ、ウェイブっ!」 赤い瞳が嫌な光を放ち、伸ばされた腕が緩慢な動作でレヴィーナを掴み上げようとした、その瞬間。 「や――!」 ぎゅっと目を瞑ったレヴィーナの背に、ふわりと、白い翼が現れた。眩い光を孕むその翼は、風を呼ぶように大きく羽ばたく。 白い光が、部屋中を満たした。 「……グ……ァ……!?」 それは本当にごく一瞬の出来事だった。レヴィーナに手を伸ばしていた魔物が、その『光』に触れた途端、急速に形を失い、崩れ去ったのだ。 それだけではない。その時室内にいた残りの魔物達もまた、声を上げることすらできないまま、同じように崩れて消え―― 後には灰のような白い砂の塊が、残されているだけだった。 「なんだ……?」 ウェイブは間近にいながら呆然とその光景を眺めていた。頬に落ちてきた雫に我に返るよう、傍らの少女を見上げる。零れたのは涙だと、緩慢な思考が脳裏に答えを描いた。 涙を拭うようにそっと手を伸ばす。レヴィーナの鮮やかな森の緑の瞳に、ウェイブは帰るべき場所を見つけたかのように、淡く微笑んだ。 「……《黎明の羽》の力、か」 独り言のようなウェイブの呟きに答えるレオナルドの声があった。その声音は、やや自嘲的な響きを帯びていた。 「生きるべきではないと、アムスは判断を下した――そういうことか」 |